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春眠暁を覚えずとは言うけれど。
もはや春ではない、はずなのに――。
「えぇぇっ!」
洋海は、時計の針を見て小さく叫んだ。
さっき目覚ましが鳴った。確かにいつもの時間で、洋海はいつも通りそれを止めて――二分ぐらいのつもりで、布団をかぶり直したんだ。
そのまま意識が飛んで、気づいたら今だった、と。
点呼の時間を軽く通り過ぎている――たぶん、烏丸先輩が適当に応対してくれたんだろう。
だったら起こしてくれても良さそうなもんだけど……いや、本当は起こしたけど私が起きなかったとか!?
「……朝ご飯がっ!」
今すぐ行けば、ちょうど食べ始める時間に着ける。
二段ベッドから転がり出て、光よりも速く制服に着替える。光より速かったら空間がゆがむんだっけ?
とりあえず何も考えずに、部屋を飛び出した。
皆すでに食堂に向かってしまったのだろう。誰もいない渡り廊下を走っていると、曲がり角から出てきた寮長とすれ違った。
「おい、DD!」
「すみません、寝坊しました!」
立ち止まることはせずに、深々と頭を下げながら走る。走らねば昼まで持ちこたえようがなくなってしまうのだ。
「あー……」
何か言いたげだったが、それ以上呼び止められることはなかった。後でお説教かもしれないが、今は許して欲しい。
食堂に着いたのは、ギリギリセーフとしか言いようのない時間帯。駆け込んできて肩で息をしている洋海を、おばちゃんが怪訝な目で見ていた。うう、起き抜けでダッシュしたせいでめまいが。
「大盛りで」
カウンターに体重を預けて、呪文のように言った。エネルギーが足りない。
「あいよー!」
おばちゃんの威勢の良い声で、だんだん目が覚めてきた。
トレイを受け取って、何となく決まっているいつもの席に向かう。
「おはよ、でろみちゃん」
でろみちゃんは洋海を見たとたん、妖怪でも見るような目になった。顔になんかついてるのかな? 急いでたから、起きてから鏡も見ていないし。
「DD、どーしたのかわからないけど、コレ」
懐から手鏡を取り出して、私の目の前につきつけた。
「え……あれ、なんか変?」
鏡に写る顔には特に何もついていない。
「こうしたら?」
鏡がすー、っと目の前から遠ざかっていって。
「うわぁっ」
洋海の髪の毛が、大爆発を起こしていたのだった。
「……直してきたら?」
「ご飯食べて、それからね。いただきます」
目の前のご飯を冷めさせるのは、お米を作った人に申し訳ないというものだ。
でろみちゃんがくすっと笑った、ような気がした。
*
鐘が鳴ったら、普段なら待ちに待ってた昼休み。だけど今日の昼休みはあんまり歓迎できない。
寝坊の件で、今のところ舎長にも烏丸さんにも何も言われてはいないからだ。朝食後に部屋に戻った時にも烏丸さんの姿はなかったから、既に校舎に行ってたかなにかで、すれ違いになったんだろう。
舎長には、朝すれ違った時にちゃんと怒られておくべきだったかもしれない。あのとき無視した分まで怒られて、反省文とか書かされるのかなあ?
烏丸さんは烏丸さんで、どういう反応をするかまるで読めないところが怖い。二ヶ月の同居生活を経ても、いまいちつかみきれない人だ。
気が重い。舎長に会ったら、とりあえず謝ろう。
渡り廊下から見える空は、いつになく灰色。今にも降り出しそうなのに降らない、そんな濃さ。
ため息をついて肩を落としたら、その肩を誰かが後ろから掴んだ。
「誰?」
爪が刺さって少し痛いな、なんて思って振り返った。
「よくも置いてったわね?」
烏丸さんが、ぶつかりそうな至近距離で洋海を見下ろしていた。
目を細めて不敵にほほえんでいる。
捕まった。舎長と会ったときのことは考えてたけど、烏丸さんの場合は――。思考停止。わかりません。
「……ええっと、すみませんでしたっ!」
身長差は数センチなのに、この威圧感。
間違いじゃないと思ってとりあえず謝った。
「まさか無視されるとはねえ」
「そんなつもりはなかったんです! あの、ほんっとになんて言うか……あれ?」
置いていった? 無視した?
なんか、話がずれている気がする。
「……気づいてなかったか、やっぱり」
私が烏丸さんを置いていけるとしたら。
「もしかして。私が起きたとき、上の段で寝てたんですか?」
「そうみたいね。舎長が起こしに来たときは、誰もいなかったから」
ひええええ。それはそれで凄いことをしてしまった気がする。
「すみませんっ。私も急いでいたので」
「知ってる。舎長が君の乱れっぷりを事細かに教えてくれたよ」
「……うう」
舎長は朝飯目指して走る洋海のことを、なんと伝えたんだろう。烏丸さんが珍しく楽しそうな顔をしているほどだ。
何であのとき烏丸さんがいないと思い込んだんだろう?
まさか烏丸さんに限って寝坊なんかしないと思ってた、ってだけじゃない気がする。
「そうだ。点呼のとき起こされなかったんですか?」
「そのときは一応起きてたんだ。私は」
「え」
「起きてたっていっても、ベッドの上でだけど。舎長には後で起こす、って言ってから、つい二度寝してしまってね。DDには悪いことをしたわ。ごめんね」
頭を下げられた。至近距離だから、少しだけだけど。
「いえ、そんな……私も寝坊してますし」
しかし、点呼の後に二度寝するっていうのはすごいかも。
よっぽど眠かったんだろうか。
「そうね。最後に。舎長から伝言」
「はい」
「『消灯一五分前に私の部屋に来い』。じゃあね」
「え? ええっ?」
嫌な予感しか伴わない伝言を残して、烏丸さんは去っていってしまった。
空を見上げると、相変わらず泣き出すのを我慢しているような色。沈むなあ。
*
レーンでご飯を受け取って。まだ誰とも会ってなかったから、今日は一人で食べようか。
気分の良いときなら悪くないんだけど、こういう時はちょっとなあ、なんて思っていた矢先だった。
「大西さーん!」
名を呼びながらこっちに手を振る人がいる。あ、この間ぶつかった人だ。あの人は何と言ったか。夏ちゃん達とよく一緒にいる……えっと、出てこない。
その向かいには、今日も三島さんがいる。たぶん仲良しなんだろう。
「こんにちはー」
「や、洋海ちゃん」
最初は位置関係的に見えなかったが、三島さんたちの隣には夏ちゃん達もいた。洋海に挨拶をすると、また元の話題で盛り上がってる。手を振っていた子の隣が空いていたので座った。
「そうだ、大西さん。朝、髪の毛めちゃくちゃだったでしょ?」
手を振っていた子が洋海に聞いた。
「あ、見られてたんだ」
勢いであのまま朝ごはんまで行ってしまった。あそこまでの寝坊は二度とするまいと決めた。
「うん。違う人かと思ったからあの時はスルーしたんだけどね。ダメよー、ああいうのは」
「寝坊しちゃったから……あの時はどうなるかと思った」
隣から手を伸ばして、子供にするみたいにくしゃくしゃと私の頭をなでる。
「せっかく髪質よくって可愛いんだから」
「え」
ああいうの、って髪の毛の方か。
「そんなでもないと思うけどなあ」
烏丸さんの濡れ羽色アンテナに比べれば、ぜんぜん普通だ。
「大事にしなさいねー。割と貴重な逸材よ」
彼女はまだ私の髪を楽しそうにいじっている。無理に振り払うのも悪いけど、そろそろ目の前の米が恋しくなってきた。
「竹井。そろそろ手を離したらどうだ?」
三島さんが、助け舟を出してくれた。
「おや、そっか。ごめんねー」
そうそう、竹井さんだ。
「いえ。でも、これじゃご飯食べられないし」
「ふふっ、三島より多く食ってその可愛らしさ。いいわねえ」
むしろ三島さんぐらいになりたいのだが、黙っておこう。
「お前、だんだんアブノーマルな道に走ってないか」
三島さんが呆れたように言った。竹井さんはそういうキャラなんだろうか。
「環境適応力が高いだけよ」
「そうか。ま、いいが」
三島さんが黙々と食べていると、ごはんというよりメシだ。
「そういえば、大西さんって一人部屋なの?」
「いや、相部屋だよ。烏丸さんっていう先輩と」
「烏丸先輩ね。あれ、じゃあ烏丸先輩も寝坊したの?」
「そう。起きたら人の気配がなかったから、烏丸先輩は先に行っちゃったのかと思って、あわてて部屋を出たんだけど、実はまだ二段ベッドの上の段で烏丸さんが寝ててね」
「うっわー……二人そろって寝坊かあ。なんか言われた?」
「舎長に呼び出されて……今夜行かなきゃいけないらしいんです」
「お疲れ様」
「烏丸先輩って、あのなげー黒髪の人か?」
さっきから黙ってメシを食っていた三島さんがしゃべった。
「その人です。……有名なんですか?」
「ま、目立つからな。でもあの人、今朝点呼より前に散歩してたぞ」
「ええっ!?」
なんで朝っぱらから散歩なんだろ。いや、そこじゃなくって。
「だったら寝坊しないでしょー。三島の見間違いじゃないの?」
竹井さんが、私より早く突っ込んだ。あれ、だけどもそういえばなにか――。
「視力良いぞ、私は」
「そうだ、烏丸さんは二度寝したって言ってたから。本人かも」
「ほう」
竹井さんが目をしばたたかせる。
「早起きして散歩しても、二度寝してたら世話ねえな」
「確かにね。でも、何でそんなことするのよ」
「悪霊退治じゃない?」
……割り込んでいた黄菜ちゃんの目は、またしても違う世界との扉になっていた。
「ないだろ」「いやいや、分からんよ?」
三島さんが完膚無きまでに呆れている。
竹井さんは何かおもしろそうだから煽っておこうという目をしている。それが正解だと思う。
「このあいだ、烏丸さんが寝不足らしいって言ってたでしょ?」
「うん」
確かに、昨日も少しぼーっとしていたようだった。
「夜通し悪霊と戦っていたから寝不足に陥っていた、なんてのはどう?」
「どう、と聞かれても」
夏ちゃんも困惑している。
「いいんじゃない? どんな悪霊なの、それは?」
先を促す竹井さん。
「そうねえ……吸血鬼みたいなのはどう?」
「黄菜ちゃん、それは霊じゃないと思うよ」
夏ちゃんがすかさず突っ込んだ。
「じゃ、吸血鬼でもいいや」
いいのか。
「ともかく、夜な夜な何かを退治しに出かけているのよ、きっと。しもべ連れて」
「しもべって……あー、あの子か」
竹井さんが一人頷く。三島さんは米を豪快に食べている。
「そして朝には疲れ果てて眠っている――ってのはどう?」
しもべと主で夜な夜な動き回っている、と。
「思ったんだけどさ、しもべって言い方はすでに吸血鬼っぽいよね」
「えっと、烏丸先輩が吸血鬼だ、と?」
私がいい加減に発した言葉で、黄菜ちゃんが難しい顔して考え込みはじめた。うー、とかむー、とか唸っている。
結論が出るまでは、十数秒。
「それも面白い想像だけど、それだと洋海ちゃんが襲われることになりそう」
「うーん……じゃあ実は私も既に襲われて吸血鬼、ってことで」
「あははっ、怖いー」「私も襲ってー」
黄菜ちゃんは吸血鬼になってどうしようというのか。
「ええっと、襲うってどうしたら良いかな?」
「首筋にキスするんじゃないの?」
「へえ。私にやってみ、洋海ちゃん」
竹井さんが、物欲しげにこっちを見ていた。
時々よく分からないひとだ。
「竹井。お前、目がマジ」
皿を空にした三島さんが、酔っぱらいの応対に疲れた女将さんみたいな目で言った。
「やー、冗談だって。ね?」
竹井さんが苦笑いを浮かべる。
少しだけ首筋に噛みついてみたくなったので、代わりに残りわずかの米に噛みつくことにした。