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秋の終わりの昼休み、ドアに一番近い席はすっかり百の定位置だ。
「モモッチ」
「はい。あれ、環さま?」
誰かの呼び出しぐらいに思って反射的に返事をしてから、それが自分を呼んでる声だと気付いた。
「お弁当食べよ」
「珍しいですね。良いけど」
大抵行き帰り以外は別行動なんだけど、今日に限ってなんなんだろ。
「あ、待って」
百が立ち上がってそばに行こうとしたのを、環さまが止めた。
「乃梨子さんも呼んできてちょうだい」
「え?」
「ほら、早くしないと行っちゃう」
急かされるままに乃梨子さんの方を見れば、ちょうどお弁当の包みを持って教室から出ようとしているところだった。
「乃梨子さん」
「どうしたの? 誰か呼んでる?」
「うん。環さまがお弁当食べよう、ってさ」
「私と?」
「って言ってる」
一瞬乃梨子さんと目を見合わせてから歩き出す。
普段なら彼女は薔薇の館にお弁当を食べにいくところだ、ってことは環さまも知ってるだろう。それでも呼び出したってことは何かあるな。
「お待たせしました」
「よろしい」
環さまが扉の前から、廊下側に一歩下がった。百はその後に続くように廊下に出る。
「あら、この方が百さんね?」
「お姉さまっ?」「白薔薇さまっ!?」
後についてきた乃梨子さんの方が一瞬、いや十瞬ぐらい早かった。百は驚いてたぶん反応が遅れた、ってわけだ。
扉の影に隠れていたので気付かなかった――いや、隠れていた?
「ふふっ、驚いたでしょう?」
環さまがしてやったりという顔で笑っている。
「ええ」
それだけのためにわざわざ白薔薇さまを借り出したのかな、って思ったけど言わないでおこう。乃梨子さんも嬉しそうにしてるし。
「お姉さま、驚きましたよもう」
もし犬の尻尾があったら全力で振ってるな、きっと。
「ふふっ、嬉しそう。良かったわ」
白薔薇さまが柔らかい笑みを浮かべている。仲良いんだなあ、この二人。
「それじゃ、お弁当食べに行こうか」
「ええ。どこにするんです?」
「ああ、それねえ」
「何ですか」
環さまが、百の目をじっと見る。あ、嫌な予感。
「考えてなかったのよ」
「やっぱり」
環さまに段取りとかを期待してはいけない。さて、どうしたもんだろう。
「まー百さんったら、言ってくれるじゃないの」
環さまがわざとらしく怒ってみせる。どっちかっていうと誤魔化したいのかも。
「環さん、良い場所を知っているわ」
「お、志摩子さんさすがっ」
環さまはもうにへらっ、と笑ってた。ある意味せわしない方である。
*
校舎から外に出て、白薔薇さまはとことこと歩いていく。
「ほへ」
道からそれて、滅多に人の来ない講堂の裏手へと入り込む。
講堂の壁伝いは一応歩道なのか、コンクリートで固められていた。回りの地面よりだいぶ高くなっているから、座ったら足が浮いてしまう。銀杏の林の傍らを進んでいく。
「あら、少し狭かったみたいね」
その一角が部分的に切り取られ、階段になっていた――なんで階段があるのかよくわからないけど。
白薔薇さまがその一番奥に腰掛けた。次いで乃梨子さん、百に環さまという順番になる。
「ここ、なかなか良いわねえ」
環さまがコンクリートについた土埃を払いながら言う。
「ええ。本当は他の人にはあまり教えたくないのだけれど」
この場所を独占したいのかな。確かに素敵だけど、ちょっと意外。
「へえ。志摩子さんがそんなこと言うなんて珍しい」
環さまも同じことを思ったようだ。
「ええ。だって、たまには二人きりになりたい時とかあるでしょう?」
「な、志摩子さんっ? 急に何言うんですかっ」
おーおー、顔から火が出ている。これは割としばしばそういう状態になってると見て良いのかな。
「ふふっ、あるって言ってるわね」
容赦なく解説してる。悪気がなさそうなあたり、ある意味凶悪だ。乃梨子さんは顔が真っ赤どころか目が潤んできてる。
「志摩子さん、なんかなんていうか上手く言えないんだけど……すっごい恥ずかしいからそれ!」
「そうだった?」
「……そうです。もう」
とうとううつむいて目を伏せてしまった。
「乃梨子さん……可愛い」
普段あんなにクールなのに、白薔薇さまの前だと全然違う人みたいだ。なんか、乃梨子さんが急に身近に感じられてきた。
お弁当の包みを開けながら思った。
白薔薇さま、凄い人なんだなあ。
「食前なのにお腹いっぱいになりそ」
「あはは、確かに」「ふふっ、環さんったら」
秋空の下に笑い声がこだまして、それからお昼の挨拶を。
「いただきます」「いただきます」
ごきげんよう、の数少ない守備範囲外だな。
「あ、それ美味しそう」
俯いていたら逆にお弁当が目に入ったらしい。乃梨子さんが志摩子さんのお弁当を指さす。
「食べてみる?」
「良いのっ?」
「ええ」
しかし、里芋の煮っ転がしかあ。白薔薇さまの実家はお寺だと言うし、白薔薇姉妹は案外庶民派なのか。
乃梨子さんはちょっとそわそわしてる。
「じゃ、貰いますね。あ」「あら」
乃梨子さんの箸の間からすっ飛んだ里芋。あ、地面に落ちる。なんて思う間もなく、白薔薇さまの箸がタイミング良く無駄のない動きでそれをキャッチした。
「おおっ」「ん?」
環さまは今のを見逃したようだ。
「ふふ、危なかったわね」
「ありがとう」
「何? どしたの?」
「乃梨子さんが里芋の煮っ転がしをすっ飛ばして、白薔薇さまが華麗にキャッチしたんです」
「……何それっ、どうして教えてくれないのよお」
環さまがわざとらしくむくれてみせる。本当に年上なのか疑問になるなあ。
「一瞬だったから」
「それでもほらなんかあるでしょ? テレパシーとかー」
「どうしろと」
ご飯を頬張ってから、心の中でため息をついた。
「あ、ゴロンタ」
白薔薇さまの足元に、猫がすり寄ってきた。ときたま見かける猫だ。
「この猫、そんな名前だったんですね」
「ええ。メリーさんとかランチって呼ぶ人もいるわね」
「私は『ランチ』だと思ってたけど、いっぱいあるのねえ」
環さまが感心したように言った。
「そういえば、イッパイアッテナって何でしたっけ?」
乃梨子さんが聞く。ええっと、確かルドルフとワンセットのお話で、何だっけ。
「童話の猫ね。遠くの街まで間違って行っちゃって帰ってこられなくなって、それで……どうしたのかしら?」
白薔薇さまが途中まで思い出して躓いた。そう、確かそんな話だけど。
「確か、遠くの街に来ちゃったのはルドルフじゃありませんでしたか?」
「そうだったかしらね」
白薔薇さまも良く覚えてないらしい。
「ああ、言われてみるとそうだった気がします。結末が思い出せませんが」
誰もハッキリとは覚えていないみたい。昔読んだ絵本の記憶なんてそんなものだ。
「……知らないわねえ。ほれ」
環さまが背中を丸めて、卵焼きの一切れをゴロンタにあげていた。ちょっと寂しげ。
「そういえば、聖さまは元気にしてらっしゃるかしらね」
「聖さま?」
「そっか、モモッチは知らないか。志摩子さんのお姉さまよ」
「どんな方だったんですか?」
「素敵な方だったわ」
「一言で言うと……変態?」
姉妹で言うことが全然違っている――!
「まあ、乃梨子ったら」
白薔薇さまが、苦笑いを浮かべている。
「初対面の人間の耳に指突っ込む人は『変態』でも文句は言えないと思います」
「ふふっ、遊び心のある方なのよ」
「いいえ、アレは遊び心なんてものじゃありません。立派な性的嫌がらせですっ」
「聖さまだけに、性的、かー。いまいちだね」
「環さままで何を言い出すんですか、もう」
乃梨子さんは、取り乱しているというか罵倒一歩手前まで行ってる気がする。
「要するに羨ましいわけね、乃梨子さんは」
百も思ったままを口にしていた。
「う、羨ましくなんか……うーん」
これ以上は墓穴だと判断して、食事に専念することにしたらしい。
「否定しない。うん、素直でよろしい」
環さまがわざとらしく頷く。
「ふふ、二人ともそれぐらいにしてあげて。それと乃梨子」
「はい」
一応聖さまは白薔薇さまのお姉さまだ。悪く言い過ぎたから何か注意されるのかと思えば。
「お姉さまみたいにしたいなら、我慢しなくても良いのよ」
「げほ、ごほ、ごほっ……」
「大丈夫?」
乃梨子さんがむせて咳き込んでいるのを、原因の白薔薇さまが心配そうに見つめていた。
「お熱いですねー。モモッチもこれぐらい可愛くなってくれないのかなー」
「無茶言わないでよ」
「ああ、でも。モモッチって呼んでも文句言わなくなったのは進歩ね」
「どっちかっていうと諦めです、それ」
学校でその呼び方はやめてって言ってたけど、何度言っても環さまは覚えちゃくれないので、いつしか百は文句を言うのをやめたのだ。
「そう? でも乃梨子さんだって普段は知らないけど、志摩子さんといるとだいぶなんていうか……緩いじゃない」
「えと、表情筋が?」
「え、やっぱりそう見える?」
乃梨子さんが不安げに百を見る。
「あはは、ごめん。でも笑ってる方が良いよ」
「ん……そう言ってもらえると助かるかな」
乃梨子さんが、控えめにはにかんでいた。今日見た中で、一番素敵な顔だった。
*
「今気付いたんですが」
食事を終えて立ち上がったとき、百は景色に小さな違和感を覚えた。
「なんでここだけ階段なんですか?」
「あら、そういえばそうね。上っても仕方ないものね」
「確かに。左右を見ても何もないし……不思議ねえ」
「……まさか、こんなところに超芸術が?」
乃梨子さんが、声を潜めながら言った。
「乃梨子さん?」
「いえ、この間本で読んだんですけど……こういう意味不明な階段みたいに、いらなくなっちゃったけど残されているモノを『超芸術』と呼ぶんですって」
「それなら、これも超芸術ってことになるのね」
白薔薇さまが言った。
「リリアンの純粋階段、と名付けましょう。赤瀬川先生に報告しても良いかもしれません」
既に乃梨子さんは、観察者の眼になっている。
「ふふ、ちょっと面白そうね。うちにもあるかしら」
環さまが妙なことを言い出したけれど。
「……いや、うちにあったら凄いかと」
普通、自宅に無駄な階段はないと思う――普通なら。