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大学でまだ用事があると言って、志摩子と別れた。
本当は、栞にさっきのことを報告して――ついでに、怪盗にでもなろうかと言いに行くのだ。彼女は今日も、駅前で占い師のフリをしているはずだ。
正門前の横断歩道を渡ってから、駅までの道を真っ直ぐに走る。
人間って、こんなに速度が出るもんだったのか。道路をゆく車の群れを次々と追い抜いていく。景色が次々と飛び去っていく。
脇道から自転車が顔を覗かせた。ぶつかるかと思ったが、足が反射的に飛び越えていた。すれ違ったおじいさんが、呆然と私を見ている――ちょっと目立ちすぎるから、無茶な動きは控えよう。
怪盗になるならば、あまり普段から目立つべきではない。
そう思い直して、いつも通りの速度で歩くように心がけたが、地上を普通の速度で歩くのが、何だか妙にまどろっこしく感じるのだった。
結局、私は三つ目のバス停から、歩くよりは速い程度のバスに乗り込んだ。それも十分に不毛な速度だったが、まあ仕方あるまい。
駅前に着くと、この間と同じ位置に、ホーロー看板が立っていた。その影に向かって声をかける。
「栞、いるー?」
「あら」「え……」
栞の向かいには、三十歳ぐらいの髭面の男が座っていた。
「あ、これは失礼。占い中でしたか」
「聖。悪いんだけど、三十分ぐらいどこかで時間を潰していてくれる?」
「分かった」
看板の影から出ていこうとしたところで、呼び止められた。
「……今の方は?」
「神の使者です」
栞が、声のトーンを落として答えたのが、僅かに聞こえてきた。
すごく突っ込みたくなったが、商売の邪魔をするわけにもいかないので、笑いをこらえて退散した。
仕方ない。駅ビルの本屋ででも暇を潰そう。
*
戻ってくると、入れ替わりに出ていった男の背中が見えた。丸まっていて、何だか頼りなげ。怪しい人生相談に縋りたくもなるかもしれない。
「ちょうど良かったみたいね。今の人は何だったの?」
「この間の人よ。詐欺から足を洗いたいって」
栞が、囁いた。
「え、マジに?」
「ええ」
……あんな男が詐欺師ねえ。世の中、よく分からないものだ。
「とりあえず、これを手に入れたわ」
小さな紙を差し出す。そこには、住所が一つだけ記されていた。
「……これって?」
「詐欺師の仕事場の住所よ」
「どうやったのよ?」
「普通に。聞いたら教えてくれたわ」
くすくすと笑いながら、何でもないことのように言う。
「普通に、ねえ……」
「畳みかけるように聞くのよ。すぐに答えられる質問を何度もぶつけることで考える時間を奪って、その合間で一つぐらい聞けば、何も考えずに答えてくれるわ」
「栞、恐ろしい子――」
いったい、この一年半で栞は何を身につけたんだろうか。
「これも、人を救いに導くためよ……」
新興宗教でも作れるんじゃないかな。
「……それさえあれば、何とかなりそうね」
私が怪盗になれば良いだけだ。
「え、何か手があるの?」
今度は逆に、栞が驚いていた。そっか、まだ雷に打たれた話をしてなかったんだっけ。
「私ね、今すっごく力が有り余ってるの」
「ええっと……青春のエネルギーとか?」
「違う違う」
「じゃあ、磁力とか」
「なぜ」
人間が磁石だったら、北極の方に常に力を受けたり磁気嵐でフラフラしたりするんだろうか。知らないけど。
「じゃあ、どんな力なの?」
「そうね……この間雷に打たれてから、とにかく身のこなしが軽いわ」
「ダイエットなんかしなくても、聖は十分良い体よ」
「栞。その表現は誤解を招くよ」
まるで栞が私の体を堪能したみたいじゃないか。
「良いわよ、誤解しても」
「ふうん……それなら」
彼女の顎を持ち上げて、キスしようとして……昔のことを思い出して、やめた。
「したげない」
「何よ、それ」
ちょっとむくれた栞も可愛い。
それは私の自制心の堤防を決壊させるには、ちょうど良かった。
「じゃ、やっぱり」
「えっ……」
驚いている栞に構わず口づける。抵抗はされなかった――目を閉じて、すぐに私の感触を受け入れてくれる。
彼女の唇だけは、一年半前と変わっていなかった――きっと、ね。
「……聖」
「驚いた?」
「ええ。急にするから」
「それじゃ、急ついでにもう一つ。私、怪盗やるわ」
「怪盗? 冷凍食品とかzipファイルとか?」
「栞、ずいぶん生活感が溢れてるわ」
一年半、本当に苦労してきたのかもしれない。
「そうじゃなくって。怪しい盗人よ」
「あら、道理で変だと思った。でも、危ないんじゃない?」
「大丈夫。三階から飛び降りられるぐらいには体が軽くなってるから」
「ふふっ……丁度良いわ。三階よ、この住所」
「うわお」
試したわけじゃないから、飛び降りて上手くいくかは未知数なのだ。まあ、たぶんさっきの木から飛び降りて何ともなかったから、大丈夫だろうとは思うけど。
「作戦は何かあるの?」
栞が痛いところを突く。
「ないわ」
「……それはどうかと」
「そうね。私もちょっと疑問を覚えていたところよ」
とりあえず、何か考えてからにするのが常識的な流れというものだろう。
「あの男の協力は得られないの?」
「難しいわ。神の使いが救いに行く、って言っちゃったから」
「神様、随分と価値下がってない?」
まあ栞が信仰を捨てたのであれば、無理もないか。
「でも神の使者って、貴方よ?」
「あ」
そういえば、さっきそんなことを言われていたっけ。
「じゃあ、神は?」
「私に決まっているでしょ?」
薄々勘付いてはいたけど、いざ言われてみると凄いな。
「……根拠、弱くない?」
「でも、この看板の影において私は神に等しいわ」
確かに、彼女の救いを全ての人が請うているという意味ではそうなのかもしれない。それに、実効性がある分。
「神様より偉いかもよ」
「で、その私に貴方はキスした、ってわけね」
そーか、私は神の使者であって神に勝手にキスしたって?
「罪深き我を許したまえ」
「罪なんかないわよ、私ちょっと楽しかったから」
「そっか」
神様が楽しかったら、何やったって構わないか。少なくともその神の勢力下では。
……えれー狭いけど。
「それで。怪盗って言ったけど、具体的にはどうするの?」
「行って、見て、勝つ」
カエサルじゃないが、それぐらいアバウトでも、どうにかなりそうな気がする。
「……富士通?」
「こらこら」
「それで勝てそうなぐらい力が有り余っちゃってるの?」
「うーん、まあ試してみないことには分からないけど」
「……それって犯罪よ?」
「無許可営業の占い師に言われましても」
「ふふっ、そうね。でも、力ずくでどうにかするつもりなんでしょ?」
「そうよ」
「強盗致傷じゃない。不法占拠より警察も必死だろうし、捜査線上に浮かんじゃったら大変よ?」
「……むー。今時、怪盗も楽じゃないな」
「そうよ。いくらお金を奪えたところで、捕まっちゃったら意味がないでしょ?」
「顔を隠して強盗、ってのもなあ……」
想像してみる。全く美しくない。
「そうよね……仮面とかは?」
「あ、ちょっと格好いいか?」
狐の面でも被って颯爽と……いや。
「大立ち回りとかになったら外れそうだし」
「そっか……って、殴り合いに突入する気なのっ!?」
「まー、そんなこともあるかもしれない、ってだけよ」
仮に物理的に殴り合っても、相手が本物の格闘家でもない限り勝てそうな気がする。これもやっぱり根拠はない。
「大丈夫。ヤバくなったら逃げるから」
「なんか、慣れてない?」
「全然。雷に打たれたの、今日よ?」
「……凄いのね」
「いやまったく。志摩子は魔法少女になるし、ゴロンタは日本語を話し出すし。大変だっての」
「誰よ、それ?」
「ああ、そういえば話してなかったか。志摩子は私の妹で、ゴロンタは野良猫」
「へえ、妹さんが……」
遠い目になる栞。無理もない。
栞の知ってる私なら、妹なんか絶対作らなかったろうから。
今でも時々、あの時栞と逃げていたらどうなるか想像することがある。たぶん、あの後は真冬の雪山の洞穴で熱量を奪われていくだけのような、終わりの見えない終わりに緩やかに進み行く人生だったのだろう。
だけど、それはこれからの私にも起きないとも限らない。
「ねえ、強盗したら、たぶん警察にビビる日々よね」
「……否定できないわ」
仮にバレたら最後に近い。いくら動きが素早くなったって、相手は天下の警察様だ。数万人がうようよとこの国中にいらっしゃる。
「あ、そうか」
「何?」
「いつ警察が来るか分からないからいけないんだ」
予め分かっていれば、心の準備だっていくらでもできる。
「えっと、具体的にはどうするの?」
栞が首を傾げる。
「警察が容易に私に辿り着けるようにしておく。その時までにアリバイを準備しておけば、何の問題もないでしょ」
「……聖、人のこと言えない恐ろしさよ」
「そうかな?」
当たり前の理屈だと思うけれど。
「で、警察に見つけてもらう方法、ってどうするの? 自首したらおかしいでしょう?」
問題はそこだ。
「うん。見つかるのはいいけど捕まらない方法がないと」
「うーん……怪盗なんだから、予告状を送ったら?」
「あ、それ良い」
「そうなると、何か通称が欲しいわね。怪盗白薔薇仮面、みたいな」
「なによそれは」
「良いじゃない?」
「センスが古くない?」
「そんなことないわよ。その名の通り薔薇をしょって現れるの」
「やっぱ古いって」
「で、世界を革命する力をー、とか叫んで」
どっかで聞いたようなセリフだ。
「あのさ、私はそうじゃなくって盗人よ?」
「ああ、そうだったわね」
「っていうか、白薔薇だけじゃ私にたどり着けないからね」
白薔薇さま、って言ったら今だと志摩子になってしまう。そもそも、その一単語だけでリリアンにたどりつけるだろうか。
「それもそうかしら。いっそ、名前書く?」
「『お金を頂きにまいりました。あらあらかしこ。佐藤聖』って?」
「微塵もかっこよくないわ」
「私もそー思う」
本名じゃ面白みも何もあったもんじゃないし、警察の追求だって確実にしつこくなる。
「怪盗というからには、もう少し怪しげな名前でないと」
「たとえば? 怪盗耳口王?」
何だか、中東らへんの昔話にでも出てきそうな感じになってしまった。
「そうね……聖だから、聖だから……セイント……セイント、佐藤?」
「シュガー」
砂糖でいいよ、もう。そんな投げやりな気分で言った。
「怪盗セイント・シュガー!?」
「それだ」
聖なるお砂糖。これぐらいなら、捕まる決め手にもならなければスルーもされないだろう。
「良いわ、すごくそれっぽい」
「どのへんが?」
「舐めたら甘いところ」
「甘いのかな、私」
「女の子はお砂糖とかでできてるのよ?」
「聞いたことないわ。それに、抱いたときベタベタしそうで嫌ね」
「聖。そんなに女の子を抱いてるの?」
「うん。変な意味じゃないよ?」
「でも、抱いたの?」
答える前に、ちょっと恨みがましいような目で私を見る栞の側に行って。
「そう、抱いた。こんな風にね」
祐巳ちゃんにしたよりも志摩子にした時よりも、はやるような気持ちで……栞の体を包み込む。
「聖」
私の名前を呼んで、そっと体重を預けてくる。その体温を、より愛おしいものにするために。私の頭が、成すべきコトを勝手に造りあげていく。
「……明日の夕方までに、白薔薇を用意しておいて。一本で良いから。あとは、私が何とかするわ」
栞を抱いている時、私の脳細胞は活発になるらしい。何とか、と省いたけれど、実際には頭の中にプランがかっちり描けていた。ゴロンタが上手く働いてくれるかがやや問題ではあるが。
「分かった。それと、衣装も用意して良い?」
「……衣装?」
「怪盗なら、それっぽい格好してた方が楽しいでしょ?」
「ふふっ。じゃ、お願いしよっかな」
何持ってこられるか分かったものじゃないが、そこは栞のセンスを信じよう。それに、妙な格好だったらそれはそれで楽しむまでだ。
そんなわけで。
明日には、怪盗セイント・シュガーが街を騒がせることになる、はずだ。