*
いつにも増して人の来ない放課後の図書室。夕方から停電するって日にわざわざ本を借りに来る人も大していやしないし。
それでも開けてるのは、単なる慣習以上でも以下でもなかったんだと思う。もう一人の図書委員は先に帰ってしまったし――私も帰ってもバチは当たらなかったんじゃないかな。
おまけにそんな時に限って、持って帰るべき教科書を教室に忘れてきたなんて。不運の埋め合わせはどこかでしてもらわねばならないな、なんて思いながら四階までの階段を登りきって扉を開ける。
薄暗い教室の中で、机に突っ伏している子がいた。
「――水口さん?」
入口から呼びかけたけれど、返事はない。
近づいて肩を揺さぶってみる。長い髪から、微かに甘い香りが流れてくる。
「起きて。授業終わってるよー?」
「ん……? 松尾さん……ありがとう」
「どういたしまして。帰らないの? っていうか、誰か起こしてくれなかったの」
「ううん、何人か起こしてくれたんだけどね。しばらくここにいたかっただけ」
――奇特な子だ。あんまり話したことなかったけど。
「帰ろう?」
「そうだね。でも、帰りたくないの」
「どうして?」
「あー……ほら、部屋、片付けるの面倒で」
後ろめたそうに目をそらした。そっか。散らかってる上に停電じゃ、帰るのもイヤかもしれないけど。
「でも、ここいても仕方ないでしょ……うち、来る? 誰もいないけど」
「え、本当? いいの?」
急に元気になって、目が輝いた気がする。ぴょこん、とお下げ髪が揺れる。
本当に、よく分からない子だ――面白そう。
*
しかし家に来てもらったところで、やることもないのだ。テレビは気が滅入るだけだからつけないとして、私たちに共通の話題も大してありはしない。
水口さんは私の部屋の中を楽しそうに見回してる。
「かわいげのない部屋でしょう? もう少し彩りがあっても良いかな、とは思うんだけどね」
ぬいぐるみとか、さ。それ自体に強い興味はないのだけれど、そういう部屋には憧れてしまう。
「え、そんなことないよ。この部屋、凄くあやちゃんっぽい」
「あ、あや……?」
確かに私の名前は綾子だけども、そんな呼ばれ方されたのは初めてだよ。
「あっ……つい、じゃなくて」
口を滑らせたとでも言うように、口元を押さえている。別に悪い気持ちは全くしないので、私の方が申し訳なくなる。
「いや、驚いただけ。そうね……えと……」
ヤバい。出てこない。しかも彼女は私が何か言うまで動かなそう。や、やめて! そんな目で見られても。
「下の名前、なんだっけ。ごめん」
素直に白状するしかないじゃないか。
「ふふっ。美紀子よ」
「ありがと、美紀子ちゃん」
俯いてる。夕焼けを受けた頬がそれ以上に染まってる。
私、何か間違えたかな。
「……嬉しい」
床に座ったままの美紀子さんは胸の前で手を組んで、空を仰ぐように呟く。
「そ、そう? 良かった」
「あやちゃん、優しいね」
「なことないでしょ。美紀子ちゃんの名前だって、今まで忘れてたもの」
「ううん。優しい。ところで、寒くない?」
脈絡がない子だ。
「そうね……少し。あ、ストーブ持ってこようか」
エアコン使うわけにもいかないし、もう少ししたらもっと冷えてくるはずだ。
「違うの。このままで良い。目、つぶってみて」
ベッドから立ち上がろうとした私を制した。目を閉じると、肩を抱かれた。首筋に吸い付いてくる、暖かい感触――それは確かに唇で。
「わっ」
目を開けると、目の前に美紀子ちゃんの顔があって。思わず、壁際まで飛び退いてしまった。
「怒らないでしょう? やっぱり、優しいんだよ」
そう言いながらベッドに乗って、じわじわと私に近づいてくる。
「え、いや、待って……頭が、追いつかない」
「ずっと、好きだった」
私をじっと見つめる、深い緋色の目。逃れられなくなるような錯覚。何を言ってるの、この子は。
「嫌かな?」
「嫌じゃないけど……分からない。美紀子ちゃん、何考えてるのか」
「だよね。私も、よくわからないもの」
「じゃあ、なんで」
「……若気の至りよ。嫌なら、暖房器具ぐらいに思ってくれればいいから」
彼女は、離れてくれそうにない。私までドキドキしてきた。
「と、とりあえず。いきなりキスするのはやめてね」
「分かった。ごめんなさい」
「あと……ドキドキさせないで。間違って惚れたらどうするの?」
「正解だったことにするだけ」
私を再び抱き寄せた腕が、長い髪を優しく解きほぐす。胸の鼓動は、徐々に体中の火照りへと置き換わっていく。
こんなことで好きになったなんて言ったら、美紀子ちゃんには申し訳ない気がするんだ。
「まだ――好きだなんて、言えないわ」
「好きに、なるの?」
「分からないけど。期待してもらって良さそう」
「……ふふっ。あやちゃん、本当に面白い人」
そう言って、彼女はもう一度私に口づける――さっきより、ずっと熱い。
牙が肌に突き立てられる――何かが、流れ込んでくる。
体中が、ひどく疼く。
「や……なに、なん、なの」
「ほら。私の声、聞こえるでしょ? キスしたままなのに」
頭の中に、直接囁きかけられる甘い声。
「きゃ……あぁ、ど、して……」
体中を同時に千本の羽で愛撫されてるような感覚。首筋からは、電極を挿し込まれ溶けていくような強烈な痺れ。
「私のモノになってくれたら、もっと、すごいことするよ?」
ダメだ。そんなことされたら、私は本当に理性とさよならしなきゃいけなくなる――。
「やだ……もっと、して……」
唇が紡ぐ言葉は、私の言葉でさえない。
「いいよ。ほら、もっと沢山、血を頂戴ね」
「は……はぁ、や……やめ……」
「抵抗しても、いいんだよ……?」
唇の端をつり上げて、意地悪そうに笑う。きっと、やめてと言ったら、本当にやめてくれる――言えないなんて、分かってるだろうに。
「ううん、もっと……」
目の前にいる美紀子ちゃんが、涙で霞んで見えない。黒い羽が生えてるのまで見える。
「ダメ。これ以上したらあなたが壊れちゃう」
「いいの……壊して」
「仕方ない子……あやちゃん、好きよ」
美紀子ちゃんが私から離れる。
まだ恍惚から戻れない私のかわりに、美紀子ちゃんは窓を開け、私を抱く。反射的に、私も美紀子ちゃんにしがみつく。
「つかまっててね、あやちゃん――続きはそれから」
身体がふわっと浮いて、私たちは街の上空へと飛び立っていく。不思議と何も恐くはない。
私たちは、もう強い絆で結ばれたのだから。
美紀子ちゃんの唇から流れる血の紅が教えてくれる。
私はこの子に、永遠を握られたのだ。