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『素敵な方だったでしょう?』
乃梨子が電話を切ってから、何度も頭の中で志摩子さんの言葉が蘇る――。
今日、志摩子さんのお姉さまであるところの聖さまと会った。噂通り。あるいはそれ以上の人だった。祐巳さまにしょっちゅうセクハラしていたという話は聞いていたけれど……普通、初対面の人間の耳に指を突っ込むだろうか。いくら妹の妹とは言え、やらないと思う。
少なくとも、乃梨子の中の常識においては。
だが、そんな聖さまを素敵な方と言い切ってしまうのは、志摩子さんその人だったのだ。
確かに、声をかけてくるタイミングは良かったと言えば良かった。……あれはどっちかというと偶然通りかかったわけだし。
横紙破りなところが素敵だ、とでもいうことだろうか?
でも、そんな人なら志摩子さんの回りには溢れてるわけで。あのお兄さんにせよ、お父さんにせよ。やっぱりそういうことではないんだろう、とは思う。
となるとやっぱり、私の知らない良いところがあるんだろう。乃梨子にしたって、たかだか二十分かそこら話しただけで人間を見極められるほどの能力は持ち合わせていないのだから。
それはさておき。問題は、志摩子さんもあんなことをされていたのではないだろうか、という点だ。
志摩子さんはどんな顔をして、あの行為を受け入れたのだろうか。あるいは、拒絶したのだろうか。ちょっと想像してみよう。
後ろから音もなく忍び寄る聖さま。
「志ー摩子っ」
不意打ちで抱きつくか、胸の膨らみに手をやるか。
「きゃっ!」
志摩子さんはまず驚くだろう。頬を紅く染めるかもしれない。ひょっとしたら、耳までそんな色かもしれない。
うーん、見てみたい。
……って、それじゃ聖さまのことをどうこう言えないか。
「やめてください、お姉さまっ!」
と聖さまの手を掴んで振り払おうとする志摩子さん。
「そんなつれないこと言わずにさぁー」
だけど、そんな志摩子さんを見た聖さまは、むしろ興が乗ってくるはずだ。楽しそうに志摩子さんの体をなで回す様子が、ありありと浮かんでくる。
根拠薄弱? そんなことはないと思う。
「きゃ……ダメですったら」
「そうは言っても体は正直よ?」
いやいやをしながらも、逃れられない志摩子さんを弄ぶ。回りの目も気にせずに、手は徐々にあらぬ方向に動き、首筋に唇が……じゃなくて!
何でこんな台詞が出てきてしまうんだろう。
それ以前に、最初の段階で志摩子さんの場合、無理に止めなそうな気がする。
じゃあ受け入れたとしてもう一度リプレイ。
「あの、お姉さま?」
「なあに、志摩子」
何気なく会話をしていながらも、触れた手は怪しく蠢いている。
「何かご用でしょうか」
「いいえ、触りたくなっただけだよ」
「では、ご自由に」
「ありがとう」
ひたすら志摩子さんの体を撫で続ける聖さまと、意に介さない志摩子さん。
祐巳さんほど良い反応をしなかった、という意味では非常に正しいけれど、これはこれでなんか違う気がするっ!
それに、キリスト教は同性愛を禁じているはず……いや、これぐらいなら同性愛の範疇には入らないのかな。
私はあんまりやってなかったけど、中学の頃の同級生の女の子達は良くそれぐらいのじゃれ合い方はしていたし。そういえばリリアンだと、表だってやる子はあんまりいないな。
というか、ここまで露骨に志摩子さんにそういうことをしていたら、そういう話が私の耳にも入ってくるはずだ。
……いや、妹である乃梨子の耳に入らないようにしてくれていたのか?
だって、知ったら今みたいに悩んでるわけだから。
待てよ? 志摩子さんがそういうことをされていたとしても、志摩子さんが納得していたなら良いんじゃないか?
いや、そう割り切れるもんでもない。
問い・何が問題なのでしょう。
答え・聖さまが羨ましい。
……あれ。これだと、私が志摩子さんになんかしたいみたいじゃないか。
したいのかな?
想像してみる。
「志ー摩子さんっ」
「きゃっ?」
とりあえず後ろから抱きついて。
それから。
……それから、どうすれば良いんだ? 聖さまみたいに経験豊富じゃないし、よく分からない。
「えい」
優しくなで回すとしよう。
そうしたら、志摩子さんは……まずは、驚くだろう。それから?
「乃梨子……ここでそういうことするのは、どうかと思うわ」
「じゃあ、人目につかない所に行こう?」
「そうね」
志摩子さんが状況に似つかわしくない微笑みをぱぁっ、と浮かべてハッピーエンドと相成る……いやいやいや。
これでは、私が完全な変態さんみたいじゃないか。
だいたい、志摩子さんがどんな反応をするのか想像もつかない。というより、しちゃいけない気はする。
だけど、聖さまはやっていたから別に良いんじゃ……いや聖さまはお姉さまだし。でもお姉さまなら良くて妹じゃダメって言うのも、考えてみれば変な話だ。
それに、仮にやってみたところで失うモノが大きいとも思えない。
……ん? 別に聖さまが志摩子さんにそーゆーことしていた、という前提はないのか。でも、祐巳さんにしょっちゅうやっていたなら、志摩子さんにも一度ぐらいはしていて良いはず。
分かってる。
これは、ちょっとした焼き餅。
私の見たことがない志摩子さんを、聖さまが知ってるかもしれないっていうことへの。
だから、そのためにちょっとぐらい変なことをしちゃっても、悪くはないと思う。
ただ、少しばかりの勇気がいるだけだ。
*
翌日。
教室に着くまで、志摩子さんに会うことはなかった。
良かったと言えば良かった。会ってまずどうするか、なんて具体的なイメージが浮かんでいたわけではないのに、抱きしめてみたいっ、という願望だけは確かに自覚しているから、もし会っていたら、たぶん私は訳の分からないことをしでかしていただろう。
朝の早い何人かの生徒に「ごきげんよう」を言って席につく。
さて、志摩子さんに会ったらどうするかを考えよう。
まず、ここに至るまでの経緯を……つまり、聖さまに会って延々と体をなで回された結果、志摩子さんにも試してみたくなった、ということを説明する。それから抱きつく。
……ダメだなあ。これじゃセクハラというよりスキンシップだ。それはそれで大いに良いことなのだけれど、本来の目的を見失っている。
やはり不意打ちでなくてはならない。説明は後でしよう。きっと分かってくれるはず。きっと笑ってくれるはず。
それより、志摩子さんの反応とか感触とかどんな感じなんだろう?
むー。難しいってば。
振り払うことはしないだろう。嫌がるだろうか?
恥ずかしがりながら、小さく首を横に振ってたしなめる志摩子さんの図。失礼ながら、非常に可愛らしい。
いや、それとも嫌そうな目でじー、っと見つめられるか。怒ってるような、戸惑ってるような、そんな目で。うん、それも新鮮だ。でも、志摩子さんなら嫌だったらハッキリ言いそうだなあ。
あるいは、喜んで受け入れてくれるか。
「志摩子さんっ」
後ろから無遠慮に腕を回す。そうすると、志摩子さんがその腕を掴んで離させてくれないんだ。少し俯きながらも、振り返って優しく天上の微笑みを浮かべてくれて、それを見て私はもう――。
「ごきげんよう、乃梨子さん。何か楽しいことでもあったの?」
可南子さんが地上の微笑みで、私を現実に連れ戻したのだった。その可南子さんにしても、最近妙に楽しげな感じではあるんだけど。
「ごきげんよう。私、そんな顔してたかな?」
「してたわ。祐巳さまの百面相ですら、そんなレパートリーはないってぐらいに」
「まずいな……それは」
志摩子さんに実際くっついてみたら、一生分の笑顔を使い切ってしまうのではなかろうか。
あ、そうだ。
「ねえ、可南子さん、ちょっとついて来て」
「なに?」
戸惑っている彼女を従えて、廊下に出る。幸い、まだ人もまばらだ。
ぱっ、と振り向いて勢い良く!
「えいっ」
正面から抱きついてみる。思いっきり体重まで乗っけて。
「乃梨子さんっ!?」
驚きの声を上げながら、私を受け止めている。まあ当たり前だわな。
思ってたより柔らかいなあ、可南子さん。背が高いせいでそういうイメージにならなかったけれど。何だかんだで女の子なんだから、私とおんなじだ。むしろ私より柔らかい気さえする。
「……えっと、もう少しこうしてて良いかな?」
「え、ええ」
戸惑ってるところ悪いが、何だかくせになりそうだ。彼女の胸に体を預けてると……妙な安心感と、ちょっといけないことしてるみたいな気分が、ない交ぜになってくる。
……志摩子さんに同じことしたら、また違う気持ちなんだろうなあ。練習のつもりだったが、練習になってない。
「ありがとう。勉強になったわ」
お礼を言って、体を離す。ちょっと名残惜しい。
「何の勉強をしているの?」
「あえて言うなら……セクハラかな」
素直に思うことを言ったら、誤解以外に何も招かなそうな響きだった。
「私、乃梨子さんという人が分からなくなってきそう」
「あ、そういうことじゃないんだよ。この間、佐藤聖さまと会ってね。あ、聖さまって分かる? お姉さまの前の白薔薇さまだけど」
「ええ」
相手が困惑しているのにも構わず、矢継ぎ早に言い訳とも説明ともつかない言葉があふれ出してくる。
「その人にね、こんな感じで……もう少し過激なことをされたのよ。それで、お姉さまもそういうことをされてたのかなー、って思ったら気になっちゃったんだ。で、私も試しにやってみようかな、って」
「……ええっと、要するに白薔薇さまに同じことをしようと思っている、と?」
「そう」
「じゃあ、さっきの笑顔はどういうことよ?」
「お姉さまに抱きつくことを考えてたら何だか楽しくなってきちゃってさ。お姉さまどんな反応するかなぁ、とか、お姉さまどんな感触なのかなぁ、とか」
言葉にしながら、自分でも気づいた。完全に乃梨子は怪しい人だった。
「やっぱり乃梨子さんって……いえ」
首を横に振る。もうダメだ、とでも言いたげに。
「最後まで言ってちょうだいよ」
「案外、面白い人だったのね」
「ちょっと待て」
案外、ってとこに突っ込むべきか。
面白い、ってとこに突っ込むべきか。
「ふふっ、特に白薔薇さまがらみ」
「仕方ないじゃない」
「どうして?」
どうせ分かってるのにわざわざ聞くのは、ささやかな悪戯心だろーか。
「そりゃ姉妹だし、好きだし」
「つまり、ラブな感じのね?」
「ラブな感じ、て」
あんまり聞かない表現だが、的確と言えば的確だ。恋とか愛とかとはまた違うし、姉妹の絆、っていうのも間違っちゃいないけれど全部じゃない。
そう。私と志摩子さんの間には、ラブな距離感が漂っている、と言ってしまって良かろう。だけど、その考えって……。
「やだ、何かこっ恥ずかしい感じ」
「そう? 乃梨子さんの場合、今更だと思うわ」
確かに、最初のマリア祭で既に盛大に友情劇をやらかしてしまっている。いや、愛情劇?
だけど、それとはまた違う恥ずかしさがあって。
「何て言うかなあ。みんなの前で恥ずかしい、というよりは、そのラブな距離感、っていうのを二人きりの時に意識してしまいそう、っていうか」
「でも、言葉がついただけでしょう?」
「言葉がつけられちゃったから恥ずいんだっての」
「ふふっ、そういうものなのかしらね?」
優雅に笑っている可南子さんは、凄く楽しそうだ。
「うう、何か負けた気分」
「頑張ってイチャついてくるのね」
可南子さんが笑いながら、私の肩をぽんぽんと叩く。
一滴の皮肉と、いっぱいの祝福を込めて。
*
さて。可南子さんにも応援してもらったことだし、志摩子さんに抱きつかねばなるまい。もはや若干目的を見失いつつある気はするけど。
覚悟を決めて、放課後。薔薇の館の扉を開いた。
ここまで来る途中で紅薔薇さまに会ったが、何を話したのか良く覚えてない……紅薔薇さまが少し遅れてくる、という点以外は。紅薔薇さまがすぐに来ないということは、志摩子さんと二人きりの確率が上がる、ってことだから、そっちに意識が集中してしまってるのだ。
二階のビスケット扉の向こうにいたのは……志摩子さん一人だった。
「ごきげんよう、乃梨子」
「ごきげんよう、お姉さま――」
秋の終わりの西日が、古めかしい部屋に射し込み、その住人である私達を照らし出す。ここだけが、時間の経過から守られているような錯覚を覚える。
秋の空に溶けていきそうな優しい色の肌。志摩子さんの輪郭が、後ろから陽を浴びて煌めく。木の壁と共に時間を蓄えたような、ふわふわの栗色の髪。単なる光の悪戯が、ここまで人を美しく引き立てるものだろうか。
「お茶、用意しましょうか?」
このまま志摩子さんを見ていたら、何か予定以上のことまでしてしまいそうだったので、流しで冷静さを取り戻してくることにした。
「ええ。お願いするわ」
蛇口をひねって手を洗い。頭も冷やして、さあこれからどうするかと思った矢先。
階段がきしむ音が、夢の終わりを告げた。
残念ながら、二人きりという時間は……思っているより、貴重なモノなようだった。
その日は、志摩子さんが珍しく笑い転げていた。それも、たっぷり数分間。それしか覚えていない。
二人きりになれる瞬間を虎視眈々と狙っていたのだけれど、帰るまでずっと、山百合会の面々が私達の側にいたから、そういうわけにもいかず。
そして、駅で志摩子さんたちと別れてから、また私は悶々とした頭を抱えて、家路につくのだった。