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「先寝るからねー」
「若いのに早寝ねぇ」
早寝、って言うけれど、もう〇時も回ってるよ。あんたが元気すぎるだけだろう。
「おやすみ」
『数十年モノのお肌に悪いんじゃない』とか、『あんた妖怪か』とか言っても良かったけれど、パスだ。皮肉の応酬を繰り返すことになるのが目に見えているが、そんなにエネルギーが有り余っているわけじゃないのだ。
間借りしている部屋に戻り、電気を消して、ベッドに潜り込んで。明かりの下にいたときには忘れていた、昼間の悩みを思い出す。
結局、今日はダメだったな。最初に薔薇の館に行った時点で、お茶なんぞ入れてないで、思い切ってぎゅっと行くべきだったんだ、ぎゅっと。
あぁ、ここに志摩子さんが居たら良いのに。そしたらいくらだってくっついていられる。一晩中。夜明けまで。
いくら抱きしめたって時間は無限みたいなもの。そのまま眠ったって良い。志摩子さんの抱き心地はさぞや良いだろう。人間だきまくら?
ううむ、素晴らしく良く眠れそう。志摩子さんの方の抱かれ心地は知らないけれど。
抱かれ心地と言えば、逆に志摩子さんに抱かれて、彼女の腕の中で眠るのはどうだろう。
う。これはこれで、心躍るものがある。ふわふわしてそうだし柔らかそうだし何より志摩子さんの腕の中だ。とても良い夢が見られそうだ、
悩む……って、抱き合って眠れば良いのか。
抱き合っているうちに、それだけで満足できなくなるかもしれない。どちらが我慢できなくなるか? 私に決まってるか。その後なんやかんやあって、明け方が来る。
毛布を服代わりにして、朝の光を纏った志摩子さん。私は、美しい光のヴェールを破らないように、夜の名残を惜しむように手を伸ばし……。
いや、なんでそっちに行っちゃうんだろう。
不純だ。不純すぎる。
だいたい私は女の子と、そういう意味で寝る趣味はない。と思う。たとえ志摩子さん相手でも。
本当に?
ちょっと自信がなくなってきた。
いや、趣味はないんだよ。
ないんだっての。
誰にともなく心の中で言い訳をするけれど、心臓の鼓動が激しく乱れ打ってるのが分かる。
誰かに頭の中を見られてたらと思うと、そんなわけもないのに恥ずかしくて死にそうだ。
寝よう。羊でも数えて。
頭の中に、緑色の大平原を思い浮かべた。
遠くの景色にゃ山がある。そんな所に柵がある。
羊が一匹、羊が二匹。柵を跳び越え、逃げていく。
三匹、四匹五匹六匹。後から後からやってくる。
七匹八匹、アーチを描く。
九匹十匹、だんだん前足浮いてきて。
十一十二で二足歩行になっていく。
羊と思えば乙女達。
乙女だけども皮は羊。
着ぐるみ娘の大行進。
長い三つ編みぶら下げて、柵を蹴倒し走ってく。
ありゃどー見ても由乃さま。
後を追ってくお下げ髪、倒れた柵にけつまずく。
きっと祐巳さまなんだろう。
「だーれだ?」
後ろから愛しい声がする。
振り向けば、誰より白くてふわふわの。
「おねえさまっ!」
体が反射で飛びついた。
触れるふわふわ二人分。
いつしか私もひつじっこ。
「乃梨子……良い子ね」
「ひゃんっ!」
喉元触れる、優しい指。毛皮のチャックを下ろしてく。
「ダメです、お姉さまっ」
だってその下は素肌だけ。
「あら、どうして?」
眩しい笑顔。
「私は全部、知りたいだけよ」
私は覚悟を決めました。
代わりと言ってはなんですが。
「お姉さま、私も同じ気持ちです」
ふわふわ守る、銀の鍵。ゆっくり下ろせば、現れる。
秋の肌色、豊かな実り。
「少し恥ずかしいわね」
「でも……綺麗だよ」
膨らみに優しく触れて、なで回す。
「だめ……だめよ」
咎める言葉も気にとめず。
「お姉さま、好きです……」
うわごとみたいに囁いて、さらに手つきはあやしげに。。
「だめ、めぇぇぇぇええええええ」
ひときわ高い声上げて、天使の魔法は溶けてった。
なんてこったい、冗談じゃない。
私の抱いた腕の中、羊になった志摩子さん。
私のせいだ――どうしよう。
「お姉さま……なんて、こと」
涙が溢れて、止まらない。なんて愚かなことをした。
「めー」
羊になったお姉さま。
向き合ってみれば可愛くて。
罪の気持ちを、深くした。
*
志摩子さんだった羊と一緒に泣きはらすと、いつのまにやら朝だった。
見慣れた天井。手のひらを見ても、白い羊毛の一本もついちゃいない。ただの夢だったようだが。
「なんだったんだ、今のは……」
思い出すと、頭が痛くなってくる。
なぜこんな夢を見てしまったのか、薄々見当がついているだけになおさら。
「よし」
今日こそは、志摩子さんに勇気を出して抱きついて、セクハラを行おう。でないと、なんか気持ちに収拾がつかない。
……しかし、セクハラだと悪いことしてる気分だ。性的嫌がらせ、と日本語に訳せばなおさら。それに、嫌がらなかったら、セクハラじゃないことになってしまうな。
訂正しよう。志摩子さんと物理的にイチャつく。
うん、だいぶ響きも柔らかくなった。
「リコ、朝からうるさい」
部屋の扉を無遠慮に開けて、菫子さんが入ってきた。
「へ?」
「寝言」
「あれ……何か言ってた?」
「羊がどーしたの、お姉さまがどーしたの、お姉さまの体が全て悪いだの」
途中までは信じられても。
「最後のは嘘でしょ?」
「そう思いたくなるのも無理ないけど、本当なのよねー」
「えっ……えっ、えぇーっ!」
私はそんなセリフを吐いていたのか。最悪だ。何が最悪って。
「志摩子さんのせいにしてたなんて……」
「女の子同士で恋しちゃったらと大変よー? エッチできない期間は通常の二倍になるし」
……えっちできないきかん。って。
「何を言い出すのよ菫子さんはっ!」
リアルに想像しそうになって、流石に焦った。昨夜似たようなことを考えかけただけに、なおさら。
「私は別にそこまで踏み込むつもりはないのよ」
ただちょっともっとひっついてみたくなっただけで。
「そう? でも実際壁は多いわよ」
「へえ……じゃなくて、どうして私がそんな危険な恋をしなきゃなんないのよ」
「しないの? しないんなら良いのよ? おばさんも安心してられるしー」
「しないわよ、全くもう」
「どうかしらねぇ」
にやにや、という擬態語の意味をそのまま乗せたような顔を残して、菫子さんは部屋を出ていった。
……騒がしい一日になるかもしれない。
*
椿組の教室に入った時、みんなの視線が一瞬だけ私に向いた。
だけど、見回した時にはもう元に戻っていて。
……気のせいかな?
鞄を机に置くと、後ろから声をかけられた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、敦子さん。どうしたの?」
「あの……乃梨子さん」
「はい」
何か言いにくそうにもじもじしている。普段は賑やかな彼女らしくもない。一体なんだと言うんだ。
「可南子さんとはどういう関係なの?」
「え?」
かなこさん。ええと。細川可南子以外の誰でもない、と思って良いだろう。
「だから、昨日ね……二人が、随分と仲良さそうにしていたでしょう?」
「それで、私達気になっちゃったのよ」
加わったのは美幸さん。
「ひょっとして、白薔薇さまに何か不満でもあるの?」
「それとも倦怠期?」
あーたらは噂好きのおばさんか。
「そんなんじゃないよ」
「ということは……白薔薇さまを嫌いになったわけじゃないけど、可南子さんに心動いてるってこと?」
「うわぁ、乃梨子さん勇気あるー」
突っ込む気にもならない。
「浮気……茨の道よね、それは」
「でも、可南子さんとは姉妹になれないのよ?」
「だからこそ、じゃないの? 上級生相手だったら、姉妹の縁を切るの切らないのの話になるじゃない」
「あー……って、切らないわよね?」
不安そうな瞳の中に、微妙に期待が交ざっているように見える。穿ちすぎだろうか。
「白薔薇革命でも起こして欲しいの、あなた達は?」
起こさないけどね。絶対に。
「そ、そういうことではないのよっ?」
「私達はただ心配だった、っていうか……」
「どうしたの、皆さん?」
「実はね、可南子さんと乃梨子さんがね……」
かくかくしかじか。説明している間に、また新しい人が来て、説明して。段々人が増えていく。
……おいおい。二人のうちは害がなさそうだから放っておいたけど、人数が二桁に近づいたあたりで流石にマズいと思った。
「あの、皆さん?」
「可南子さんを選ぶの、白薔薇さまを選ぶの?」「姉妹の絆……よね?」「可南子さんと何があったの?」「乃梨子さん、私は貴方の味方よ?」
思い思いに好き勝手なことを言っている。まあ、私が余り深刻な顔をしていないせいだと思うけど。
「まず、可南子さんとそういう関係になったつもりはないからね」
「それなら、昨日のあのラブシーンは一体……?」
集団を率先して、敦子さんが聞いてきた。
「つまりね。可南子さんは、練習台だったの」
「え?」「練習……」「何の?」「まさか、もっと激しいことを……?」
勢いづいた羊の群れというのは、結構制御するのが大変なんだろうな。羊飼いって凄い。
「いきなりお姉さまにそんなことするのも……何だか恥ずかしくって、ね?」
「それじゃあ、可南子さんとは何でもないの?」
私は気づいていた。
「もちろん。そうよね、可南子さん?」
さっきから、人垣の後ろに一際高い頭があったことを。
「ええ。それに、私が白薔薇姉妹のラブラブっぷりを知った上で、浮気相手になるとでも?」
うむ。実に正論だろう。
だが、正論を聞いて少女達は散るどころか、小声で話し合って結束を深めていた。コソコソと嫌な感じではなかったから、様子を見ていたけれど。
「乃梨子さん。私達にお手伝いできることはあって?」
「え……いや、気持ちだけで十分ありがたいよ」
「そう言わずに、ね?」「私達だって、ただ楽しんでるだけじゃ申し訳ないものねえ?」
どうやら、一度首を突っ込んだからには、最後まで何かしたいらしい。楽しいことに飢えてるんだろうな。
「それじゃあ……お願いしようかな」
*
放課後。
「あれで良かったの?」
廊下を掃除していると、同じ班の可南子さんが私に聞いた。
「少し心が痛むけど……まあ、実害はないから」
私が彼女達に何をお願いしたかと言えば。
偽の呼び出しをして、薔薇の館に到着する時間を十五分ばかり遅らせてもらうこと。そうすれば、志摩子さんと二人きりになる時間が恐らく数分ぐらいはできる。
その間に、全てことを済ませようというわけだ。
「もう一度練習する?」
「遠慮します」
「そう、残念」
そう言って笑う可南子さんを見ていたら、何だか何もかも上手くいきそうな気がしてきた。
その予感は当たるのかどうか――。
「乃梨子さん、先に行ってて良いわよ」
掃除が一通り終わると、声をかけてくれた人がいた。
「ありがとう!」
その優しさを素直に受け取って、誰より早く歩きだす。
志摩子さんより先に着いたって仕方ないのだが、今は気が急いている。走り出したいのはやまやまだが、生憎廊下にはちょっとばかり人が多すぎた。
スカートのプリーツを乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、ギリギリの速度で早歩き。薔薇の館の階段を上りきったころには、一回も走っていないのに軽く息切れしていた。
……志摩子さんが来るまで、やることがない。
今頃、敦子さん達は上手くやってくれているだろうか? 誰かが失敗していた場合、乃梨子の目論見が成り立たない上に、他の人が足止めをした分の努力も無駄になるわけで……頼まなきゃ良かったかな?
……きっと上手くやってくれる。彼女達の好意と成功を信じて、私は黙って掃除でもしていよう……いや、掃除中の手で抱きつくわけにいかない。却下。
「うー」
とりあえず、手近な椅子に座って、机に突っ伏してみる。やることは何もないが、それが逆に新鮮な感覚だ。
そういえば、この場所ではいつも何かをしていた。誰もいない横向きの部屋は、何だか違う空間みたい。
何もせず無為の時間を過ごすというのも、たまにやってみると楽しい。まして、それが志摩子さんを待ってる時間なら。
「あ」
足音、というよりも僅かな軋み、といった方が良いような音が聞こえてきた。
志摩子さんだ。
背筋をピンと伸ばして、それから、えーっと……?
扉が開かれる。
「ごきげんよう……あら、乃梨子だけ?」
「ごきげんよう。そうですね、皆さんまだ来てないようです」
ヤバい。急に胸がドキドキしてきた。動かないでいると、心臓が口から飛び出しそうで……ふらふらと立ち上がる。
机に鞄を置いて、仕事で使うものを取りだしている。……こっちを見てない今しかないっ!
背後に回り込んで、優しく抱きしめる。
「志摩子さんっ!」
「きゃぁっ!?」
つもりが、力が入りすぎてしまったようだ。慌ててお腹に回した腕をゆるめる。
やっぱり思った通り……何だか、柔らかい。
志摩子さんが驚いた表情のまま、振り向いた。至近距離で見開かれた瞳が、少しだけ揺れていた。
「聖さまも……志摩子さんにこういうこと、していたんですか?」
「乃梨子。聖さまは、こんなことしなかったわよ?」
ようやく謎が解けた、とでも言いたげに。にっこり笑って言ったのだった。
「じゃあ、私だけ……ですね?」
ちょっとだけ優越感。
「くすっ、どうかしら?」
え。それって、また別にこんなことをした人がいる、ってこと?
「それと、手を離してくれる?」
しれっと言われたら、引き下がるほかなかった。
「……はい。お嫌でしたか?」
嫌だったなら、素直に謝ろう。
考えてみたら、ここのところの私の思考は……若干崩れていた。
「乃梨子。私が良いというまで、目を閉じていて」
「こ、こうですか?」
視界が闇に包まれる。
志摩子さんは、何をしようと言うのだろう。
足音が、私の横を通り過ぎる。まさかこのまま帰ってしまうとか……? 志摩子さんの中の触れてはいけない何かに触れてしまった……?。
だけど、そんな何か、私の知らないようなことが志摩子さんにあるだろうか? 足音が消える。
「きゃんっ!?」
後ろから、唐突に抱き寄せられた。
「可愛い声ね」
「志摩子さんっ!?」
脇の下から入ってきた細い腕。心地よくて、体中の力が抜けてしまいそう。
「聖さまだけじゃなくて、私も下級生に悪戯してみることにしたのよ。良いわよね?」
あってないような胸をさわさわと撫でられる。その指使いが、もの凄くこそばゆい。
「だ、ダメですお姉さまっ!」
「あら、ダメなの? どうして?」
手が止まって、何だか寂しくなる。志摩子さんの声も、また残念そうだった。
「その、ダメというのは言葉のあやでして……」
「じゃあ、続けて良いの?」
「……はい」
恥ずかしい。わざとやってるんじゃないか、って普通なら思うけど。志摩子さんに限ってそれもあるまい。
「それなら、遠慮なく。それと、まだ目を開けていいとは言っていないわ」
「わ、分かりましたっ」
視覚がシャットアウトされると、必然的に他の感覚が鋭敏になる。さっきまでと同じような愛撫なのに、今度は声が漏れる。
「んっ……や……」
やだ、と言ったら、また中断されてしまいそう……。
っていうか、私……何で、こんな風になってるの?
とたとたと階段を上る足音が聞こえてくる。
「乃梨子、こんな風にされたかったの?」
耳元で囁く声は甘い。
「ひゃぁっ!」
ふー、っと息を吹きかけられて、思わず体中が震えた。ちょっとだけ気持ち良いと思ってしまった。
「んっ……」
「ちょ、お姉さまっ?」
私の耳を唇で挟んで、弄んでいる。力が抜けて、立っていられなくなって。志摩子さんに体重を預ける。
受け止めてくれた感触は優しくて。一緒にいるってことが体中で感じられて。
このまま時が止まれば良いと思った。
だけど、扉の開く音がした。
「ごきげ……」「んよう」
祐巳さまが挨拶しかけて、由乃さまが引き継いだ。
「あら、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう」
見られた。こんなところを、見られてしまった。
「乃梨子? もう目を開けて良いのよ」
「あのー、お邪魔しましたでしょうか?」
祐巳さまが聞く。
「いいえ、大丈夫よ」
「あー……新婚さん方は仲が良くて羨ましいこと。続けてなさい」
「そう、ありがとう」
言葉を文字通りに受け取った志摩子さんが、より強く私を抱いた。
「あの、お姉さま?」
それは皮肉だと思います。それに、ちょっと冷静になるともの凄く恥ずかしい。
祐巳さまは驚いていたと思ったら、今度は呆けたまま顔を真っ赤にしてるし、由乃さまは由乃さまでなぜか楽しそうだし。
「あら、乃梨子が先にしたことでしょう?」
「そ、それは二人きりだったからですよ」
「ああ、それもそうね」
案外あっさり手を離してくれた。
「乃梨子の可愛い声を聞いて良いのは、私だけだもの」
サラっと凄いことを言ってくれる。だけど、その言葉は凄く嬉しかったし。
「……私も。お姉さまだけに、そんな声をお聞かせしたいです」
「ふふっ、待っているわ」
振り向いて見た志摩子さんは、綿飴をもらった子供のように、満足げに笑っていた。
「あー熱い熱い。窓、開けるわよ?」
由乃さまが音を立てながら窓を開ける。外の風が吹き込んで、私の火照った頬を心地よく冷ます。
色々あったけれど、万事の首尾はだいたい良好。
私の欲求も疑惑も、収まるところに収まった。
誰のおかげかは、考えないことにしよう――。