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この世界は、三つの地平でできている。
神々の住まうアースガルド。人間の住まうミッドガルド。そして、死者たちの住まうヘル。
しかし、何事にも例外というのはつきもので――神々の住まうアースガルドから、ビフレストの橋を越えたミッドガルドの片隅に、人の理を越えた島がある。
セールンド。それが、この島の名。
人間界で一度死んだ乙女たちは、未来を視る能力を持った女神・ゲフィオンの見守るこの島で、さざめきながら幸福な日々を永遠に送りつづける。
それがこの島での理――だった。
*
セールンドの島で一番大きい建物は何か。と問われれば、誰もがこの図書館と答えるだろう。
ユグドラシルの彼方から、この世界のありとあらゆる場所だけじゃなく、時代をも超えて集められてくる書物たち。それに合わせて、この図書館も次々に拡張されてゆく。建物の中は複雑に入り組み、果てしなく延び広がってゆく。どこまで歩いてもなかなか終わりには辿り着かず、島自体より大きいんじゃないかってぐらいに広い。
常に変化するこの建物の全容は、女神ゲフィオンでさえ知らないのだそうな。知っているのは、この図書館の中心で忙しく動き回っている、司書長だけ――無理もない。改築やらなんやらの指示は全て彼女一人で出しているのだ。宮殿で女の子を可愛がって過ごしているだけのゲフィオン様より、よっぽどこの島の統治者らしいのではないだろうか。
神の地であるアースガルドにもこんな図書館はないのだという。というか、アースガルドではオーディンが賢者ミーミルの首を独占することで権力を確保している以上、図書館なんてものがあるとオーディンとしては嬉しくないのかもしれない。
従って、この図書館がこの世で一番広いと言ってもたぶん差し支えないはずだ。ゆえに、その外れに最近できた小さな一角の新米司書である私が、今探してる本をなっかなか見つけられないのもごく自然なことでして――。
「どこにあるのよコレ……」
『スヴァルトアールヴヘイム第三王朝期における動乱の詩』
スヴァルトアールヴヘイム――要するに、黒妖精の国の詩、というか歴史書なのはタイトルから何となく分かるんだけど、その配置はまだまだ未知の領域だ。
しかも図書館というのは概ね似たような本を近くに陳列しているわけで。
「……どれだろ」
妖精の国や巨人の国の歴史書ばかりが並んだ棚の列。
その中の一つの王朝の話をしてる本が標的だというトコまで分かっていても、メモと一致する名はなかなか見当たらない。一応この図書館に収録する時点で、ここの言語に翻訳されてはいるから読めることは読めるんだけど、聞き覚えの薄い固有名詞というのはなかなかに難物なのである。
「その本、探してるの?」
「うわっ!?」
振り向くと、幾分背の高いお姉さんが私の肩に手をかけて微笑んでいた。
「さっきあっちで見たわよ。奥から二つ目の棚の三段目」
――すごい。ものすごい美人さん。十秒ぐらい思考が止まりっぱなしになっていた。
美の女神であるところのゲフィオン様と張り合えそうな長い金色の髪は、秋の始まりのような幸福な光の色を纏ってる。女神以外には少女しかいないこの島の中では、飛び抜けて実り豊かな体つき。
「どうしたの? もっと可愛がってほし……おっと」
何かを思い出したらしく、私の後ろからすっ、と離れていく。
それで私は、ようやく返事という概念に思い至る。
「ありがとうございますっ!」
「がーんばってねーっ!」
手をひらひらさせて叫びながら、蔵書の棚のさらに奥に向かって走り去っていった。
にしても、見覚えのないひとだった。人自体そうそう来ないのだから、ここにお客さんなんか来てたら覚えてそうなもんなのに。今日初めて来たんだとしたら分かるけど、偶然本を見つけていたってのは――ずいぶんと珍しいこともあるものなんだな。
「おっと」
そうだ、呆けてる場合じゃあない。私もさっさと本を待ってる人のもとに届けなくちゃいけないんだっけ。
「お待たせいたしましたー」
本棚の果てからカウンターに戻って来ると、頬杖をついてぼーっと待っていた女の子がお下げ髪を揺らして顔を上げた。頬が片方だけ手の跡で染まってる――ちょっと待たせすぎたかなあ。
「あの……面倒おかけしました」
彼女は遠慮がちに本を受け取る。
「いえいえ、どういたしまして。またどうぞー」
この島の司書の仕事は、あんまり多くない。というか、この島にはやるべき仕事自体があんまり多くないのだと思う。
少女たちは概ねのんびり生活していて、それで何となく上手いこと回っているのだ。
そして人口に対して図書館が広すぎる、というか本の数が多すぎるのだ。区画ごとには大量の本があるものの、それを読みに訪れる人はまあ大していない、というのが普通なのだ。配属された書室によっては、一日に一人も人が来ない日の方が多い、なんてこともあるらしい。
なんだけど、私の区画に限っては誰も来ない日なんてなかった。
「そのあたりの本、こないだも探してたでしょう?」
カウンターの前の席に腰掛けている見慣れた長い黒髪。ショヴンが私に少しばかりトゲの生えた言葉を投げかける。
「あれ、そうだっけ?」
私はそれが心地よくて、あえてとぼけた返事をしてみたり。お客さんももう行ってしまったし。
「しっかりして頂戴よ。司書は貴方で私はお客よ?」
澄んだ歌うような声が、静かに私を非難する。
「ふふ、ごめんなさい」
「もう」
ため息をつくショヴン。その横顔は、呆れているようで安心しているような。
「そうそう、今日はなんか綺麗な女の人がいてねー」
「ふうん」
「見ない顔だったよ。この島来たばっかりなのかも」
「どんな人?」
「そうだね……金髪が綺麗だった。あと、割と背が高くて――胸が立派だった」
「どこ見てるの、貴女」
最後の一言で、ショヴンの目線がすごーく冷たくなった。そうは言っても立派だったんだから仕方ない、なんてのじゃ弁解にもならないし。
「ほら、本を探してたら急に話しかけられて、ちゃんと見てる暇がなかったのよ」
慌てて言い訳してから、そんな言い訳する必要性のなさに気づいた。
「ちゃんと見てる暇があったらしっかり観察してきたかったような口ぶりよね」
「だ、だってしょうがないじゃん! ほんとに美人さんだったんだし……そりゃ、少しぐらい眺めてたくなるでしょ?」
ショヴンはしばらく呆気にとられたような顔をしてから、ぽつりと言った。
「見てみたいわねえ」
全く見たくなさそうな素っ気なさだったけど。
「この奥で会ったんだから、裏口から出て行ったんでなければまだこの辺にいると思うけどなあ」
「どうかしらね」
……まあ、入ってきたのも気づかなかったからな。
「あ。お客さんだ」
「はいっ!」
慌てて立ち上がって見回してみたものの、私たちの他にひと気なんてまるでなく。
「騙されるようじゃ、まだまだね」
「ひどい……ひどいひどいっ!」
「図書館ではお静かに」
しれっと口元に指をあてて諭されても。
「ショヴンが変なこと言うからでしょ」
「どうせ誰もいないわ」
「むー……なんか悔しい」
別に誰もいないままだっていい。そりゃ、たまには人が来ないと飽きるかもしれないけど、基本的には。
かといって、どうせと言われて納得いくかと言われればそれは違うモノでありまして。
「どうせって言うなー」
人差し指でショヴンのほっぺをつっつく。
「あ、こら」
手を払われてももう一度。
――やわらかい。
「もう」
ショヴンが諦めたのを良いことに何度もつっついていたら、指先が温かくなってくる。
小さな窓の外を見ると、はらはらとこの冬初めての雪が舞い始めていた。
★ x-ING oFF tHE dAYS
城の最上階にある小部屋。
天窓から射し込む光の眩しさに目を細めた少年が、縛りあげられた女を見ていた。
女の肌には、傷跡一つない――それは少年にとって、好都合でありながらも、あまりにも不満で不安なこと。
「ちっ……おい」
濁った声で呼べども、女は答えない。答えたところで何もならないということを、さんざん身体で理解してしまっているから。
「おいッ!」
くらぁ、と女が少しだけ首を挙げる素振りを見せ、また首を下ろした。呪詛とてもはや、無駄なこと。
「これが欲しいんだろ? 素直になれよ」
少年が掲げたのは、銀色に煌めく長剣。
「くっ……」
女は顔を歪めた。その輝きは、すでに苦痛の前兆というシグナルを与える媒体となっているから。
「うぐぁぁああっ!」
女の胸にナイフが突き立てられる――幾度目になるだろうか。
「殺して欲しいか?」
「お断り、ぐぅっ!」
軒が引き抜かれ、湧き出す泉のごとく傷口から血が溢れ出す。人間なら死んでいるだろうが――彼女は不死だ。傷とて一日すれば治ってしまうだろう。
「く……うぅ……ぐ……」
女のうめき声と苦悶の表情を見ながら、少年の表情には、泥の底にこびりついたような微笑みが浮かんだものの、それも一瞬で消えた。
「飽きてくるな……ちっ」
少年がかんしゃくを起こしたように剣を地面に放り棄てた。
「誰か捜してみるか。おい!」
少年が叫ぶと、使用人の少女が息を切らしながら現れた。
可憐なデザインの少女たちの衣装とて、フリルは枷となりレースもほつれ果て、もはやただの拘束具としての意味しか成していない。
この城を司る者が、この少年となってしまったから。
「一番可愛い娘を連れてこい。三分だ」
「かしこまりました」
輝きを失った少女の瞳。抑揚を失った少女の声。
かつて女と少女は夜を共にした。潤んだつぶらな瞳を向け甘い声で可愛く鳴いていた、少女のあの時の愛らしい姿。その片鱗が記憶の果てから覗くから、余計に今の姿が辛く見える。
女は強く唇を噛む。
彼女の口の中に鉄の味が広がった。