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「えー、ショヴンすごいじゃない! どうして断っちゃったの?」
私が驚いて声をあげると、ショヴンは困ったように目を伏せた。そんな顔をしてみせるのは、初めてのような気がする。
「えっと……それより本読んでる方が好きだし」
歯切れが悪いのも珍しいことで。
それだけ、司書へのお誘いがかかるって言うのはおおごとなのだろう。まして、その誘いを断るなんてのは。
「マイペースだなー。私ならすぐ受けるよ?」
司書になれるんだったら、喜んでなると思う。
「どうして?」
「だって司書だよ? この図書館の主だよ?」
「主って言ったって、ほんの一部じゃない」
「そうだけど。なんて言うか……楽しそうじゃない?」
この書物の山と書室がまるごと私の管理下に入るわけだ。別に、そんなことしなくたって好きに読めるから図書館だって言われればそうなんだけど。
「んー……私には、分からないかも。でも、今のロヴンはとても楽しそうね」
「あはは、そうかな?」
「やってみる?」
ショヴンが私を真っ直ぐ見据えて言った。
「え」
「司書」
そこで、目が覚めた。
あの後のことは、よく覚えてる。
その次の日に早速司書長のティエンナさんに引き合わされて、実は私たちのどっちにしようか最後まで迷ってたって言われて。
私は私で舞い上がったまま勢いで承諾して司書になり、今の書庫を引き渡されたってわけだ。
結局なんでショヴンが司書にならなかったのか、今でもよく分からないままだ。気楽な立場の方が好きってことだけじゃないような気がするけど――なんだろうね。
窓の外では、昨日から降り続く雪が積もり始めていた――寒くても、司書は一応行かなきゃいけないだろうな。
*
朝、書室にやって来てから、一冊本を読み終わるぐらいには時間が経ったわけだけど。
(むう)
今日は本当に人が来ない。比喩でなく、誰も来やしない。
確かに、今日は雪の降り始め。外は恐ろしく寒いし、図書館の中だって大して暖かいってもんじゃない。もうしばらく経てば、完全に冬が来たと諦めて雪の中でもみんな外に出始めるだろうけど、今日わざわざ図書館まで来ようって人はそんなにいないだろう。
だけど、それだけならこんなに暇になるはずはないんだ。
ここ数日、ショヴンが全然来ないのだ。私のところに毎日のように来ては、気だるそうに本を読んでいるあの姿。
いないとずいぶん落ち着かないもので。景色自体がどこかおかしく見えてくる。有り体に言って、うすら寂しい。
約束してるわけじゃないし、どこか別の書庫で面白い本の群れを見つけたなんてことも十二分にありうる話ではあるんだろうけど、今までそんなことはなかったし――よくわからない。
もしかして、寒さで風邪でもひいたのかな。でもこの島では何が幸いしてるのか、来たばっかりで慣れてない人が時々なってるのを除けば、風邪とかにかかってる人自体めったに見かけない気がする。
だからってショヴンが風邪じゃないと断言はできないし。
よし。夕方になったら会いに行ってみよう。
そう決めてみたとて、今はここから動けない。ああ、これは――さらに時間が長く感じるだろうな。
正直に言えば、ここを離れたとて誰が咎めるとも思えないのだけれど、かといって職務を放棄しちゃうのも気が引けるって言うもので。
さて、次は何の本を読もう。できるだけ、気の紛れそうなヤツを。
「あの」
声をかけられるまで、存在に気づかなかった。
林檎がいっぱいの籠を持った、見覚えのない女の子がそこに佇んでいた。明らかに違和感がある。
「どうなさいましたか?」
別に、いない間閉めてるわけじゃないから、そこに人がいること自体はおかしいことじゃない。
何がおかしいかと言えば――見た目が幼すぎるのだ。十歳行かないぐらいなんじゃないかな、もしかして。
こんな娘もこの島に送られてくることがあるんだな。しばらくしたら、多少育ったところで止まって島に溶け込むのだろうか。それともこのままなのか。
にしても人形めいた子だ。白い髪に全身白い服。色素が薄いんだろう。
「あの。おね、じゃなくて女の人……見ません、でした、か?」
どこかものすごく怯えたような様子がある。わたし、そんな恐い顔してないと思うんだけど。
たぶん、この島に来る時はその人に連れられてここまで来たんだ。
「女の人、ねえ。どんな人なのかな?」
「私よりね、ずっと背が高くて、とっても目が綺麗なの」
そういうこの子の目も、透明な紅だったけれど。
その子が誉めるほど目が綺麗で背が高くて、って。
「もしかして……すごく長い金髪の格好いい感じのお姉さんかな?」
「どうして!?」
「え、合ってたのっ!?」
当てずっぽうだったのに。言ってみるものである。
私たちはしばらく驚いて見つめ合う。ただでさえ大きい目が見開かれると、本当にくりっとしてて……。
「イドゥン」
小さな声で少女が言った。
「え?」
「わたしの、名前」
私が聞き返すと、悪いことでもしたように小さな声で少女は応えた。
「ああ。私はロヴン。よろしくね」
そうだ。この子のためにも、早いとこ探しに行かなきゃ。
「それじゃ、お姉さんを捜しに行きましょうか――なんて言うの、あのお姉さん?」
「フレイヤ」
……アースガルドの女神と同じ名だけど。まさか本人ではあるまいな。
私がカウンターの外に出て、イドゥンちゃんの手を取ろうとしたけど、彼女は不安げに私のいたカウンターの方を見てる。
いやいや、私はこっちだよ。
「いいの、ここ?」
「ええ。困ってる子を助けるのも司書の役目よ」
「誰も、いなくなる」
「大丈夫よ。私がいなくても、お客さんが自分で何とかするから」
「へんなの」
確かに、よそではあまりない仕組みなのかもしれない。
だけどここでは、どうせ本も人もこの島から出ていくことはないだろう、ってみんな思っているし、時間だって無限にあると思ってるから成り立つんだろうな。
「そうかもね。ここは少し、へんな島だから」
*
「フレイヤさーん! いたら返事してください!」
水平線の向こうに叫ぶぐらいのつもりで声を張り上げてはいるんだけど、それ以上に書庫は広すぎる。
「お姉さま! どこー……おねえさまっ……!」
声は相変わらず消え入りそうにかすれてる。とはいえ、イドゥンちゃんの横顔も必死そう。
にしても、お姉さま、かあ。
「イドゥンちゃん、フレイヤさんのこと……好き?」
「す、好き!」
「そっか」
「あ……」
作られたように真っ白な頬に一気に血が通い、可愛らしい紅色に染まってく。
恥じらいつつ半ば目を閉じたイドゥンちゃんは、口づけたらきっと口の中で甘く溶けてしまいそうな可愛さで――。
「分かった。頑張って探すわね!」
私は、そんな自分を抑えるように務めて明るく言ったのだった。危なっかしいなあ、我ながら。
それから更に何度も同じようなことを繰り返しながら、階段を下りて曲がってさっきまでいた通路をくぐったり、さらに階段を下りてその階を塗り潰すように探してみたり、大階段から枝分かれした奥の小部屋まで行ってみたり、要は延々と歩き回って。
螺旋と枝葉の組み合わせでできた、迷宮のような書庫。
何階降りたか分からなくなった頃。
「ねえ、本当に見つかるの」
泣きそうな声で訴えかけてくる。私のセーターの裾をぎゅっと掴んで。
ああ、もう。抱きしめたくなるけど、そしたらなんか唇まで奪ってしまいそうなので、やめとこう。
「大丈夫よ。私、こう見えてもここの地図ぜーんぶ知ってるの」
精一杯の笑顔で答えた。髪を撫でてあげると、幸せそうに表情をやわらげる。ずっと見ていたくなるけど、今はそんな場合でもない。
「さ、行きましょ」
彼女の小さな手を取って、また歩き出す。
それからほどなくして訪れた書室。
「フレイヤさん!」
「おねえさまー!」
呼びかけたところで、返事はなく。
「イドゥンなのっ?」
――あった。
カツカツと反射する足音が、徐々に大きくなってく。
やった。やったよ。
本棚の海から姿を見せたのは。案の定、あの時の女の人だった。
「イドゥン――探したよ!」
「お姉さま!」
二人はまるで引き寄せ合う星のように、数年ぶりに会ったかのごとき勢いで抱きしめ合う。
ああ。無事出会えて良かったともさ。
「もう、どこ行ってたの」
フレイヤが問うと。
「はぐれたの。お姉さまでしょ」
目をじっと見据えて、小さな声で言った。
「あ、そうだったね」
そんな適当な。
「ひどい」
「ごめん。これで許して」
フレイヤが、イドゥンちゃんの唇を奪った。
イドゥンちゃんは目を閉じ、与えられる感覚を味わっているようで――拳が少し震えている。味わうような情熱的な口づけ。
こうして見ているとなんだか、背徳感と危うさのある二人だ――見ているこっちがドキドキする。
年の差のせいかな。
唇が離れて、イドゥンちゃんが発した言葉はといえば。
「いいよ」
しれっと、さっきまでの話を続けたのだった。
なんか、見せ付けられてる気がしてきた。
良いなあ。私も、あんなことしてみたいかな――イドゥンちゃんとじゃなくて、誰かって言ったら、そんなの。
「……あ、君」
いない。いないよ。誰かの影なんて見えない。
「この間の子じゃないか!」
話しかけられてることに気づいてから、しばらく言葉の意味が頭に入ってこなかった。余計なことだけ考えてたから。
「……あれ、違った?」
ようやく頭が動き出す時には、フレイヤどころかイドゥンちゃんまで心配そうな顔で見ていた。
「いえ、正解です。先日はありがとうざいました」
「まさかこんな形で再会するとは思わなかったね……この子を連れてきてくれてありがとう。困ってたんだ」
「どういたしまして」
「くれぐれも内緒にしてね」
「……今のキス?」
「それもだけど。私、ここにいるのバレたらまずいんだ」
ああ。それでこんな変な場所にいるのか。
「理由、伺っても良いですか」
「私、実は逃げてきたのよ――アースガルドから」
「え……じゃあ貴女まさかっ」
足がガクガク震える。目の前がホワイトアウトしそうになる。
「そう。女神です。よろしく」
「ふぇ、ふぇええええええええ、んぅぅ!?」
思わず声をあげていたら、唇が塞がって。
一瞬、頭がぼうっとした。
「ちょっと乱暴だったかな?」
なんでこんなことになってるんだ。
「……はじ、めて、だったのに」
出てきたのは、嬉しいとか光栄とかじゃなくて。
「ごめんごめんっ」
両手を合わせて謝ってるけど、顔は苦笑い。そりゃあ、豊穣神の彼女にとってキスなんてそれぐらいのものなんだろうけど。
「ひどいです!」
私がキスしたいのは、少なくとも貴女じゃないんです、フレイヤさん。
「でも、もう緊張してないでしょ?」
「あ、本当……」
「ひどい」
「イドゥン! それは、その……なんていうか」
「いつも、そうなの?」
「これはついクセで……あ、じゃなくて」
随分人間的な女神さまなんだ。
っていうか、イドゥンちゃんの方が立場が上なのか、この二人。
「私には、もっとすごいこと、して」
「……今はこの子が見てるから後でしたげる。楽しみにしなよ」
さっきのキスも十分凄かったのに、この二人ときたら何をし出すんだろう。
概念は想像できても、この二人が実際にそういうことしてるのは――想像の埒外、だなあ。
「あげる」
「ふふ、ありがと」
小さな声とともに差し出された林檎。
濃い紅は、恋に染まった頬の色。
愛でたくなってくるじゃないか。
「それじゃ、私は上に戻りますけど……貴女たちは?」
「そうだね。もう少しここにいることにするよ」
イドゥンちゃんも小さく頷いた。
「今度ははぐれないようにしてくださいね、フレイヤさん」
「分かっているともさ」
上がっていくと、底の方からかすれた喘ぎ声が聞こえだした。
「や……あぁ……」
――きっと二人は恋人同士、無理もないけど。
なんだか胸がざわつくのは、どうして。
誰かの影が心にちらついたとして、それは本心からなのか。
分かるようで、分かっちゃいけないような気持ち。
手の中の紅い林檎は、思わず投げつけたくなる手頃なサイズ。だから投げつけないように、大事に持って上がるとしましょう。
*
夕方。図書館の通用口から出て、私はショヴンの部屋に向かう。
本格的に冬めいてきてる。いつもと同じぐらいの時間に出てきたのに、空の藍色は黒に近づいている。
吐く息は既に真っ白だ――もうすぐ、この島全体が雪に閉ざされる。そしてこの島の花々は奇妙なことに、その一番寒い時期にこそ色とりどりの花弁を咲かせるのだ。
この道沿いにも、雪上の花が開きかけている。鮮やかな橙色が、冬を照らすのだろう。
図書館からしばらく歩いていくと、まばらに屋敷の建つ集落がある。その中でも一番大きな庭のついた、重厚さを纏った洋館。
門をくぐった私は、道の真ん中の踏み荒らされた雪じゃなく、少し道を外れたところの薄く積もった新雪をさくさくと踏み分けていく。心地良い冬の始まり。
ショヴンは、この洋館の一室に住んでいる。私の住む平屋に比べると、幾分込み入った造りをしている。
重い扉を開けて建物に入り、ロビーから階段を上って廊下の最初の曲がり角を折れて三つ目の扉が彼女の部屋だ。
とりあえず、三回ぐらい控えめに戸を叩いてみる。
返事はない。
「ショヴン! いないのー?」
大声で呼びかけてみても、やっぱり返事はない。帰ってきてないのかな。
「どうしようか……うーん」
帰ってないだけならいいんだけど、これだけ姿を見てないとなると少しばかり心配だ。
試しにドアノブに手をかける。
……あれ、本当に鍵開いてたよ。
「入るよー?」
私が扉を押し開けてロヴンの部屋に入ろうとした時、隣からも同じように扉を開ける音がした。
「こんばんは」
「ごめんなさい、うるさかったですか?」
「いえ、平気よ。お久しぶり」
「お久しぶりです、ヒュヴァイラさん」
ショヴンのお隣に住んでる人だ。確か、図書館に遠い国から入ってくる本の翻訳をやってるっていう。
「ショヴンちゃんなら宮殿だと思うわよ」
「宮殿……宮殿? えぇっ!?」
宮殿って言ったら、あの宮殿以外にないよね。女神ゲフィオンの住まう城、それだけだ。宮殿に連れて行かれるってのは、とても光栄なことには違いない。
「ティエンナ様の次はとうとうゲフィオン様に気に入られちゃったのかねえ」
そう。宮殿からお呼びがかかった子は、ゲフィオン様のお付きの娘となって、女神さまに可愛がられつつ、たまの雑用をこなしつつも基本的には優雅に過ごすことができるのだ。
無論、話が来ても断ることはできるけど――恋人が他にいるとか、何か宮殿の外でやりたいことがあるとか、そういう理由でなければ、大抵は受けるものだ。
「わあ……道理で、図書館に来なくなるわけですね」
となれば、ショヴンが行っちゃうのも無理はない、はずなんだけど。
何かがすごく引っかかる。喉に刺さる小骨なんてもんじゃなく。
「ん、何も聞いてないの」
「ええ。突然来なくなっちゃったんです」
「……なんだか、あの子らしくないね」
「部屋の中、入ってみますね」
「鍵、閉まってないの?」
「ええ、どうやら」
きぃ、と音を立てて扉が開く。
カーペットの敷かれた部屋の中は、前来た時よりいくらか散らかっていた。
几帳面な性格だと思っていたけど。
ベッドの上には寝間着が脱ぎ散らかされている。
小さなテーブルの上には、カップの底に薄い紅が残ったティーセット。その傍らには、すぐに続きを読むとでも言うように、床に無造作にひっくり返された本。
「……この状態で、出かけるかなあ」
「だよねえ。ベッドの上はいつも通りだけど」
「え」
そんな頻繁に来てたのか、ヒュヴァイラさん。いいな……お隣さん。
「ティーカップ、確か他にもあるわよね。割れてたとかそういうことじゃなく」
「ええ。結構何種類もありますよ。ほら、こっちの棚に」
食器棚に並べられたカップは、気分で使い分けてるにしても、少し多すぎるぐらい。
「だとすると……」
ヒュヴァイラさんが考え込む。
そう。何かがおかしいのは、私にも分かる。
「ねえ、ロヴンちゃん。あの城に兵士って、いるかな」
「え? 聞いたことありませんよ、この島に兵士がいるなんて」
「だよねえ。でも、私がショヴンとすれ違った時、あの子は二人組の兵士に連れて行かれる途中だったのよ」
「なんだか、ずいぶん物々しいですね……でも、まさか」
無理矢理連れて行かれるなんてこと、この島にはないはずなんだけど。
「どうしようかな……できれば近づきたくないのよね」
ヒュヴァイラさんが、小さな声でぼやく。前に何かあったんだろうか。
「よし! 宮殿、行ってみよう」
疑念を全て打ち消したいかのように、明るく言った。
「ええ!」
私も同じトーンで答えたけれど。
すでに、なんだか恐かった。
*
夜が更けたからといって、この島の王宮は人を拒むことはない。
来る者拒まず去る者追わず。ただし惚れた場合を除く。
この島の女神様は、そう公言してはばからないのだから。
そのはず、なんだけど。
門の前には、見たこともないぐらい重装備の兵士たちがいた。私と同じような体格なので、見ててずいぶん辛そうだが。
「名を名乗ってください」
槍を交差させて、私たちの行く手を遮る。やっぱり、スルーってことじゃないらしい。
「私はロヴン。司書です。こちらはヒュヴァイラさん」
「何の用ですか?」
「面会希望です。ショヴンという子が最近こちらに来ていませんか」
「お断りします」
「え」
せめて確認しに行くとかないのか。
「城は今、王の許した人以外は入れません」
おかしい。
こんな高圧的な台詞を吐かれるような場所じゃなかったはずなのに、ここは。
だけど、上手く考えがまとまらないし、こうけんもほろろに断られては――。
「ねえ、王って誰?」
後ろにいたヒュヴァイラさんが、私のかわりに話し始めた。
「王は王です。さあ、お引き取りください」
「王って、ゲフィオン様なの?」
「誰です、それは」
ヒュヴァイラさんの言葉に、彼女は平然と答えた。まるで、異国の人の名を聞いたかのように。
「……うそ」
ゲフィオン様のことを、知らない。
だったら誰のために動いてるんだ、彼らは。
「旦帰りましょう。その方が良いわ」
呆然とする私に、ヒュヴァイラさんが耳打ちした。
「お邪魔しました。お仕事頑張ってくださいね」
ヒュヴァイラさんが私の手を引きながら、門から離れていく。
「ありがとうございます」
律儀に礼を言う彼女は、紛れもなくこの島の住人に見えたけれど。その門番はゲフィオン様を知らない――。その代わりに存在している王。
王。王?
一体、何が起きてるっていうの。
……ショヴンは、無事でいるんだよね。
「朝になったら、司書長に相談してみよう。不安かもしれないけど――いいかな」
「はい」
司書長、か。
確かに、王宮の外では一番頼れるかただ。
しかし、そもそも私たちと会ってくれるものなんだろうか。緊急事態と言えば緊急事態なのだろうけれど、それなら一層彼女は忙しい身になってるかもしれないし――かといって、他に頼るアテもない。
ともかく、今はヒュヴァイラさんの言葉を信じよう。
★ dEsERt lUllaBy
少しだけ、前のこと。
秋の賑やかな森が眠りについた夜。木々の合間の誰も知らない小さな建物。魔術師は今日も滅びかけた古の呪文を唱える。
魔法を使えば、眠る貴女の姿が見えるから。
「ゲフィオン……いいえ、」
愛しい貴女の、私だけが知る名前。それを声に出さずに呼ぶだけで、頬から耳へと熱が甦り、体中の皮膚が疼くように熱くなってくるのを感じる。
「ごめんなさい……貴女のこと、一瞬とは言え苦しめてしまうのね」
天蓋つきのベッドには、今日もまた、貴女ともう一人の少女が眠っている。少し色黒で少年めいた顔立ちの娘。私よりずっと可愛らしい少女は、最近の貴女のお気に入りなのでしょう。
そこで無防備に眠る貴女を、私だけのものにしたい。閉じた瞼に口づけたとて、幽体の私には、触れることなどできない。近づいた唇がぶつかれば、ただ通り抜けてゆくだけ。それでも虚ろな接吻は、貴女に近付けたような錯覚をくれる。
実体で移動すれば、貴女に姿を見られてしまう。貴女の前に私は行けない。
そんなことをすれば、きっとまた私の心は乱れてしまう。きっと貴女は私に微笑む。貴女の輝石を散らすような眩い口元を、ずっと見ていたいと思ってしまう。
貴女は誰にでもそうやって、最上の笑顔を向けるのに――。
その花を私が独占しようとするのは、きっと愚かなことなのだろう。彼女は優しすぎるから、乙女達に戯れで花を分け与えてしまう。一番貴女に幸せをあげられるのは、私なのに。
それを止めてもらうためなんだ――でも、これで上手くいかなかったら?
私は常に夢見ている。永遠に、貴女を私だけのものにすることを。