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「乃梨子、着いたわよ」
肩を軽く揺さぶられて、眠りから引き戻された。
後部座席でうつらうつらしているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。車が止まっている。
「あ、本当だ」
「お疲れのようだな。風呂が湧いているから、入ってしまうと良い」
志摩子さんのお父さんが、車を降りながら返事をした。
「わざわざありがとうございます」
「どういたしまして」
「私も助かったわ。行きましょう?」
「はい」
乃梨子も降りて、一歩前をゆく志摩子さんについていく。
お寺には前に来ているけれど、家の方は初めてだ。小さな灯りが、引き戸のまわりだけをうっすらと照らしている。
「お邪魔します」
板張りの廊下を少し歩いた先に、志摩子さんの部屋があった。八畳ぐらいの和室の真ん中には、小さなちゃぶ台が置かれ、その周りのタンスや文机も皆同じような焦げ茶色だ。その色合いが、この場所の歴史の長さを物語っている。
文机の上は綺麗に片付いている。戸棚と押し入れがあるとはいえ、かなり物の少ない部屋のように見える。
「それでは、あとは若い者同士で」
「分かりました」
前に聞いたようなセリフだし、この時間帯に言われると変な意味を帯びそうだ。
志摩子さんは気にせず頷いているし。
「あ、そうだ。乃梨子ちゃん、だったか?」
「はい?」
「襲った場合は責任を取るように。逆もまた然り」
「な……何言ってるんですかっ!?」
お坊さんがそーゆーギャグを飛ばすべきなのか。それに、女の子二人で襲うったってどうしたらいいんだ。
「はっはっは、違ったか。それは失礼。よい夜を」
「むー……」
何か言い返そうにも、さっさと消えてしまった。
そもそも、言い返した時点で何かやましい気持ちがあると言ってるようなものだから言い返すべきではない。つまり、襲うというのが完全に冗談に聞こえない程度には襲いたかったことになる――いやいや、その前に若い者同士なんて言うから思考が変な方向に行ったんだ。
「お父さまはああいう方なのよ。お風呂、入って来たら?」
志摩子さんはいつものように微笑んでいる。なんだか恥ずかしくて顔をまともに見れない。
「ええ、じゃあ……そうさせてもらいますっ」
荷物だけ部屋の端に置いて、逃げるように部屋を出ようとして。
「待って、乃梨子」
「え?」
「浴室の場所、知らないでしょう? それに着替えも、寝間着で良ければ今用意するから」
――ここは志摩子さんの領域であったことを思い出す。
「あ、確かに。お願いします」
脱いだ服をそのまま着る、というのはお風呂に入った意味がなくなってしまうi以上、最終手段だ。志摩子さんが引いたタンスの段の中身は、全て和服だった。
……あれ。和服の下って何着たらいいんだ?
下着のようなものが存在するとしても、そこまで借りるというのはいくら何でも気が引けるし――とすると、素肌の上に直接、寝巻き一枚だけ着るの?
ちょっと躊躇いがあるが、考えてみれば別にそのまま外をほっつき歩くわけじゃないから、構わないと言えば構わないのかもしれない。これから朝までその格好だったとして、乃梨子のその姿を見るのは志摩子さんだけだ。
「志摩子さんの前でだけなら……良いよ」
「どうしたの?」
自分で何を口走ったか、乃梨子は一瞬遅れて悟った。これじゃまるで、初めての婚前交渉に及ぶ乙女だ。
(って、なんだこの比喩は)
その発想自体が、今の乃梨子の状況を端的に示しているのだった。要するに、乃梨子自身と志摩子さんが初めての――。
「乃梨子? 顔が真っ赤だけれど、熱でもあるの?」
「いえ、大丈夫ですっ」
まさか、お姉さまを襲ったら(もしくは、襲われたら)どうするか、なんて思ったとは口が裂けても言えない。
「それなら、良いのだけど……襦袢は、私ので構わないかしら?」
「あ、そうだよね、うんうん」
さすがに素肌のすぐ上に浴衣、ということではなかったらしい。というか、そうだとしたら志摩子さんは普段からかなり刺激的な格好で生活していることになってしまう。
浴衣の下に白い柔肌。触れてみたくても触れちゃいけない領域だ、そこは恐らく。
「どうしたの?」
「ううんっ! なんでも、なんでもないんだよ?」
首を横に振って、思い浮かんだ映像を打ち消す。襲ったら責任を取らなくちゃいけないんだったっけ。
「そう? これで全部よ、どうぞ」
白い襦袢に裾よけと、朽ち葉色のシックな浴衣を受け取る。
「ありがとう。入ってきますね」
「ええ」
*
風呂上がり。
乃梨子が慣れない和服の帯を適当な結び方で結び終えると、ふわっと甘い香りに包まれた。
その元は、さっき勝手に借りたシャンプーか、それとも洗剤か。足して二で割った香りかもしれない。
「ふわあ……眠い」
心が安らげば、体だって弛緩する。
ひと気のない廊下を歩く。外からは虫の声が響き、濡れた頭に涼しい風が心地よく吹き付ける。
志摩子さんの部屋に戻ると、志摩子さんは座布団で正座したまま目を閉じていた――眠ってるらしい。今日はずいぶんと強行軍だったから、無理もない。
起こさないようにそろそろと近づく。普通に起こしてもよかったんだけど、何だかもったいないような気がした。なんせ、志摩子さんが座ったまま寝ている姿なんて、滅多に見られるもんではない。
眠っている時も、微かに笑みを浮かべている。楽しい夢をみているんだろうか。そこに乃梨子がいられたら、もっと幸せなんだけどな。
今ここで志摩子さんと向かい合わせに眠ったら、同じ夢が見られたりしないかな? 非現実的とは分かっていても、少しだけそんな夢をみたくなってしまう。
正面から、志摩子さんの表情を見つめる。改めて見ると……初めて会ったときよりも、可愛らしい。あの桜の下で光の中に佇んでいた志摩子さんは、とても美しくて……触れたらすぐに消えてしまう幻のように儚く見えた。
それが、今やどうだろう。目の前の志摩子さんは、この上なく無防備な顔をして、のんびりと眠っている。瞼の奥にある瞳が涙に震えることも、もう当分はないだろう。
だから、こんな風に眺めていても、不安にさせられることはない――だけど、そこで欲張ってしまうのが人間というもので。
ふわふわの髪を一束とって、指先でそっとなでてみる。
つやのある感触が、指先をさらさらと流れていく。
優しく閉じられた柔らかそうな唇。
今すぐキスしたら、どうなるだろう。
私たちは、そこから先に何を見出せるだろう。
口づけたら、どうする?
(襲ったら責任とれ、か)
そんなことをする必要は、今のところないだろう。しなくてもお互い満足していられるし――だいたい、キリスト教じゃ同性愛はご法度だ。
それに、乃梨子自身だってまだ、そんなことしたいのか分からないんだから。
(でも、キスはしてみたいかな……せっかく、眠ってるんだし)
通っているようで全然通っていない理屈で、乃梨子は眠る志摩子さんを見つめる。
(うん、キスまでならセーフ……だよね?)
自分で自分に救いを求めながら、ゆっくりと顔を近づける。
少し汗ばんだ手の中には、志摩子さんの髪。
朝焼けのようにかすかに赤みのかかった頬。
元より静かな寝息の音は、さらに小さく静まり返る。
閉じた瞼がだんだんと開かれて。
黒い真珠の瞳が、乃梨子の表情を映していた。
「あ……」
乃梨子は、進むことも戻ることもできなくなってしまった。
「あら、続きはないの?」
「え、あ、お姉さまっ」
「もう、乃梨子ったらいじわるね」
志摩子さんは、呆れたように言った。
「それは、その……ごめんなさいっ!」
言われてみると、眠ってるときに唇を奪うのは、不意打ちという意味では無理矢理襲うのと大して変わらないような気がする。むしろ、記憶に残らない分タチが悪い!?
「私だって、乃梨子とキスしたいのよ? 一人だけ楽しむなんて、不公平だわ」
「えっ……」
そんなこと、言われたら。
嬉しい。
嬉しすぎて、どうして良いかわからない。
「何を固まっているの? ふふっ、乃梨子ったら」
志摩子さんが、春先のうさぎのように、ぱぁっ、と楽しそうな表情をした。
「わ――」
頭を引き寄せられて、ちょっと強引に唇を奪われる。
触れ合っているのは唇だけなのに、体中が、かぁっと熱くなってくる。
唇から伝わってくるのは、言葉よりお喋りな気持ち。
志摩子さんが、愛おしむように乃梨子の髪を梳く。
つむじの先から、耳の後ろを通って、首筋へ。
くすぐったくて心地よいようなその感触だけで、理性と意識が飛びそうだった。
(志摩子さん……ダメだよ)
だけど、幸いその前に唇が離れてくれた。
「やっぱり、顔が真っ赤よ?」
「だって、そんな風にするから……」
「そう? 私、キスしてただけでしょう?」
「だけじゃないです。指先でつー、って」
「え? 私、そんなことしたかしら?」
無自覚って怖い。
「してましたよ」
「ごめんなさいね。嫌だった?」
本当に申し訳なさそうな顔をされて、乃梨子は慌てた。
「いえ……嬉しかったです」
それで理性が飛びかける乃梨子の方が問題である。
「良かったわ。私も、お風呂入ってくるわね」
「ええ、待ってます」
志摩子さんを見送ったあと、乃梨子は触れ合っていた唇を、名残惜しいような気持ちで嘗めた。
高原の、砂糖菓子の味がした。