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真夏の夜の……

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 志摩子さんの部屋は、実によく片付いていた。

 物が少ないのか収納が多いのか。机の上には、読み込まれた聖書が一冊置いてあり、棚には普段使いの教科書類と何冊かの本が綺麗に並んでいる。

 あんまり暇の潰しようがなくなった乃梨子は、座布団の上でくつろぎながらあることに気づいた。

(少し、お腹空いたな)

 一応、途中の駅で蕎麦を食べてはきたのだが、如何せんまだまだ育ち盛りなのである。

 乃梨子は小さなため息をついた。

 突然押し掛けただけでも迷惑だろうに、なんか食べさせて、なんて言うのはさすがに気が引けるし、体にも悪そうだ。耐えるしかないか……。

 それにしても暇だ。

 この後は寝るだけだし……ん、寝るだけ?

 後ろに置かれた布団は一組。

 ええっと、これは。一つの布団を共有しよう、とそういうことなのかな。

 いや、どっかにもう一つあって出してきていない……そういう可能性の方が普通に考えれば高いんだけど。

 でも、一緒に寝てみたいとは思う。至近距離で。

 ドキドキして眠れないかもしれないけど。というより、志摩子さんとほぼゼロ距離で眠るなんて、できそうもない。

 せっかくこんなに近くにいるのに、ただ眠っているなんて勿体ない。その後どうするか。

(って、何かするのか私はっ?)

 自分で突っ込みを入れてから、乃梨子は気づいた。

(そういえば……普通にキスしてたっけ、さっき)

 優しい指先のおまけ付きで。思い出すだけで、体が火照ってくるようだ。

 その続きを求めたくなってしまうのは、本当は悪いことじゃないのかもしれない。なのにとても悪いことのような気がする。

 志摩子さんの信仰とこれ以上の行為は相容れないだろうし、私自身だって本当にそんなコトしたいのか分からない。

 志摩子さんは……そんなこと、考えてもいなそうだ。もし考えに入っていたら、あんな風にやすやすとキスできるはずがない。

 ――こういう時、噂に聞く聖さまだったらどうするかな。

 欲望のままに振る舞うだろうか?

 案外、何もせずしれっと朝を迎えるか?

 ……あの人の場合は、色々とした上でしれっと朝を迎えそうだ。参考にならない。というか、参考にしてはいけないな。

 乃梨子は、再び長いため息をついた。自らの吐息の熱さには、気づかずに。

 

                    *

 

 はたはたと足音が近づいてくる。

 それに合わせて、乃梨子の緊張が高まる。さっきまで考えていたことを知られるわけにはいかない。

 襖が開いて、そこに立っていたのは。

 当然ながら、お風呂上がりの志摩子さんである。それだけだったら、乃梨子にしたって驚きゃしない。

 ふわふわの髪は乾きかけ、しっとり湿って輝いてる。

 波打つ栗毛のその下の、紫紺の浴衣が馴染んでる。

 肌の白さは言うまでもなく、目元はわずかに眠たげで。

 バックにお花が出てくるような、反則的な可愛らしさ。

「乃梨子? 何を驚いているの?」

「志摩子さんが……あんまり可愛かったから」

 気づくのは、言葉にしてから。

 すごくなんだかむやみやたらと恥ずかしい。

「乃梨子も可愛いわよ。浴衣、やっぱり似合ってる」

「そ、そんなこと……嬉しい、です」

 否定するのもおかしな話。志摩子さんが似合うと言うなら、それだけで十分だ。加えて、志摩子さんがいつも以上に可愛らしい。

 これ以上望むのは、ちょいと欲張りすぎじゃないかい?

「あ、そうだ! 一緒に写真撮りましょう?」

「ふふ、良いわね」

 鞄の中からデジカメを取り出して、志摩子さんの肩を引き寄せる。触れた肩は。まだ少しだけ熱かった。

「それじゃ、撮りますよー?」

 乃梨子は腕を伸ばして、レンズを二人の間に向ける。

「ええ」

「3・2・1!」

 ゼロ、の代わりに、とびきりの笑顔になって。

 長いシャッター音が鳴った。

「どう? 良く撮れているかしら」

 小さな画面に映っていたのは、にへらー、っと緩みきった笑顔の乃梨子と、ふわふわ三割増量中な志摩子さん。

「うわ、私なんだか気の抜ける顔になってない?」

「ふふっ、そんなことないわよ。だって、顔全部で笑ってて、こっちまで楽しくなってくるわ」

 写真を見ながら、屈託なく笑う志摩子さんは――抱きしめてほおずりしたくなるぐらい可憐。本当にやったら止まらなくなりそうなので、どうにか自制してカメラを置く。

「ふわぁ……今日は、色々見られたね」

「ええ。でも、まだ今日は終わってないわよ?」

「ふふっ、確かに」

 そう。このあとは寝るだけだとしても、それって結構大事なことだ。

「それじゃ、布団持ってくるわね」

「良いですよ、わざわざ持ってこなくても」

 つい、口から本音が溢れ出す。

「どうするの、乃梨子?」

 志摩子さんが、目をまん丸くして驚いている。

「一緒の布団で寝れば別に良いと思うんです。あ、やっぱり狭いですかね?」

「考えてもみなかったけれど……良い考えね」

 志摩子さんが、大きく頷いた。

「でしょ?」

「じゃあ、枕だけ取ってきましょう」

 部屋を一旦出て行った志摩子さん。

 乃梨子は小さく息をつく――眠れるかな。

 

                    *

 

 布団を敷いて、二つの枕を並べたら、いよいよ寝るしかなくなって。

「電気、消していいかしら?」

 志摩子さんが、蛍光灯から伸びたひもを握って言う。

「どうぞ」

 一足先に布団に入っていた乃梨子が答えた。

 紐が引かれた途端、視界は真っ暗になる。

 足音と布団の動く感覚で、隣に志摩子さんが入ってくるのが分かった。だんだん目が慣れて来て、暗闇は天井へと変わる。

「乃梨子、こっち向いて」

「……はい」

 体ごと横を向くと、志摩子さんにぶつかりそうになった。

「ふふっ、とっても近いわね」

 正真正銘目と鼻の先。息の音すら聞こえそうな二十センチの距離感。無邪気に笑う志摩子さんは、暗闇の中では神秘的ですらある。

(どうしようどうしようどうしよう――!)

 乃梨子は焦る。この距離は、まずい。変な気を起こしたら、すぐに実行できてしまう。

「さっきから乃梨子、何か変よ? どうしたの?」

「そ、それはっ……」

 勢いで志摩子さんを襲ってしまいそうだからです。なんて、言えるはずもない。

 じゃあ、なんて言ったら良いの?

「乃梨子?」

 志摩子さんの表情から、笑顔が消えた。

「はい」

「何か……私に言えないことがあるの?」

 憂いと不安が入り交じった目線を向けられる。それは、美しくて切なくて――懐かしい。咲き誇る桜の幻影と共に、乃梨子の心に罪の意識を芽生えさせる。

「良いのよ。でも、貴方が悩んで苦しむ姿は、できれば見たくないの」

 暖かい両手が、震える乃梨子の手を優しく包み込む。

「志摩子さんっ……!」

 私は。こんなくだらないことで志摩子さんに心配かけて。何をしてるんだろうか。気づけば乃梨子は、お姉さまの体に、縋るように抱きついていた。

 志摩子さんは何も言わず、ただ腕で乃梨子をつなぎ止めることで、答えを返してくれる。

 こんな時だってのに。こんな時だってから?

 密着して少しつぶれた胸の感触が、甘い痺れと微かな快楽になる。

「全部、話すよ? ひょっとしたら、気持ち悪いって思われるかもしれないけど……聞いてもらった方が、良いと思うから」

 例え志摩子さんがそれで悩むことがあったとしても、さっきみたいな寂しい気持ちにするよりは、きっとマシだ。

「ううん。乃梨子のこと、そんな風に思うはずなんてないじゃない」

 ……乃梨子がこれから言う言葉は、果たして志摩子さんにとってどういう意味を持つのか分からないから――少しだけ、怖い。

 でも、きっと大丈夫だ。

「志摩子さん。私……このまま志摩子さんを襲ったら、どうなるか、って思ったんだ」

「襲う、って……いやらしい意味で?」

 志摩子さんが、躊躇いがちに聞いた。

「……うん」

「具体的には、どうするの?」

「え」

 具体的に。具体的に。予想もしない質問だったし、今まで考えてもみなかった。

「まず、服を脱がなきゃダメよね。いえ、着たままでも良いのかしら?」

「えっと、脱いだ方が良いんじゃないかな」

 って、そんな話をしようとしたわけじゃなくて。

「で、それからは?」

「……分からない。そこまで、考えてはなかったみたい」

 なんせ思い立ったのが、ついさっきだ。

「ふふっ、これで分かった? 考えるのと、そうしたいのは違って、きっとまだ実際してみたい、って段階じゃないんでしょう?」

 その言葉自体は、納得できるのだけど。

「もし、本当にしたくなっちゃったら――私、どうしよう」

「すれば良いわ。ちょっと怖いけれど、歓迎するわ」

「え……」

 待って。そんなこと、許されないと思ったのに。

「何をそんなに驚いているの? 私の信仰のことなら、心配はいらないし」

「どうして?」

 キリスト教では、同性愛はタブーの度合いとして非常に高い……と思っていたんだけども。

「私たちが仮にそういうことをしても、神の御心には背かないわ」

「えっと……聖書にダメって書いてあるんじゃなかったっけ」

「ええ。一応、そう書いてはあるわ。だけど、その前提となるのは――神様の『産めよ増やせよ地に満てよ』、という言葉なの」

「女の子同士じゃ、子供はできないよね……」

 人工授精とかそういう方法はあるにせよ――って、それは本当に生涯を添い遂げる前提に近い話だ。今の乃梨子にそこまでの覚悟は、ない。

「私たちは、すっかり地に満ちているわ。だったら、女の子同士でしたって、構わないはずよ」

「なるほど……確かに、そうだけど」

 理屈は通ってるけれど、乃梨子の中の前提が崩れてしまった。襲っても、そういう意味では罪じゃないのだ。

「ふふっ。別に、しろというつもりはないの」

 頭を抱えそうな乃梨子を見て、志摩子さんが笑った。

「志摩子さんは……したいの?」

「いいえ、特には。でも、乃梨子が襲うなら、特に抵抗はしないわよ」

 特に抵抗はしない、って。

「志摩子さん、自分を大事にしてっ!」

 自分で襲うとか言っておきながら、ついそんなことを言ってしまう乃梨子なのだった。

「してるわよ。乃梨子以外にそんなことをされても、すぐに逃げ出すもの」

「志摩子さんっ……」

 抱きしめた腕を、ぎゅっと強くした。

「どう? やってみる?」

「やめておく。今はまだ」

 そのうちに、志摩子さんを押し倒したくなる日が来るだろうか?

「ね、志摩子さん」

「なあに?」

「志摩子さんも、したくなったらいつでも襲ってくれていいから」

「ふふっ、分かったわ。その時は、遠慮なく」

 真夏の夜は、二人でただ抱き合って、更けてゆく。

「このまま……朝まで、良い?」

「もちろん」

 お互いの腕の中で、私たちは……極上のカフェオレみたいに溶け合いながら、眠った。

 

                    *

 

 目を開けると、景色が全て志摩子さんだった。

「わ」

 驚いた。ちょっと距離を取って落ち着こうとしたが――金縛りにあったみたいに動けない。

 志摩子さんは軽く寝ぼけているのか、瞳が潤んで色っぽい。

「おはよう、乃梨子」

 ああ、動けないのは腕がしびれてるんだ。

 なんて考えていたら、乃梨子の顔は志摩子さんの両手に捕まった。

「んっ……!」

 いつの間にか始まる、遠慮のない情熱的な口づけ。

 唇が触れ合っているだけなのに、そこから体中の力が抜けていき、全身が支配されていくような恍惚。唇だけでこうなるんだから、もっと凄いことしたらどうなるんだろう。

 不埒な想像は、それだけで乃梨子の感度をより高め。

 普段なら聞こえない足音も、耳が拾っていた。

(誰か来るのかな……)

 だけど、触れ合う唇を離すなんてことは、後になってから思いついたことで。今の乃梨子は、ただ志摩子さんとの感覚に溺れていたかった。

 ガラガラと襖の開く音がして。

「……失礼した」

 同じように閉じた。

 乃梨子が解放されたのは、それからしばらくたってから。

「どうだった?」

 ちょっと名残惜しいが、また求めることもできる。

「……素敵、でした」

「ふふ、良かった」

「でも、見られてましたよ?」

「本当に?」

「あの、気づかなかったんですか?」

「ええ」

 ……案外図太いのかな。まだ寝ぼけているとか。

「恐らく志摩子さんのお父さんが、一瞬だけですけど」

「ふふ、困ったわね」

 笑い声が涼やかに響いた。

 朝も早くから、蝉が鳴いている。

 言葉と裏腹に、志摩子さんは楽しそう。

 だから今日も私たちは――素敵な日を刻めるに違いない。



    終。  




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