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マリアの厳冬

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 二月の終わり。

 武蔵野の丘に吹く風は、冷たく乾ききっていた。

「ちょっと寒かったかな。でも、暗くなるまでだからね」

 委員長が、言い訳するみたいに言った。

 冬だから寒いのは当然。環境整備委員会、なんてものに参加している以上、多少つらくても仕方がない。

「晴れてるだけマシよ」

 委員長と仲のいい別の先輩が言った。

 高等部校舎の脇の、人があまり通らないところにある花壇。枝だけになった木々が西日に照らされて、まばらに雑草の生えた土にその寂しげな姿を写す。

「ちゃっちゃとやりましょう。もう一回集まるなんてごめんだわ。ね、志摩子さん?」

「ええ」

 山百合会に行かれない自分を気遣ってくれているんだろう、というのは分かったけれど。

 志摩子は、あまり薔薇の館に近づきたい気分ではなかった。

「それじゃ、始めてー」

 委員長の号令とともに、集まった何人かの生徒が作業を始めた。

 リリアン女学園においては、委員会活動への参加は生徒の自主性に任されている。従って、部活と委員会のどちらを優先するかも同様であり――この寒い中草取りに勤しむかどうか、というのも同様である。

 大半の生徒は、体を動かして暖まれる部活動を選んだのだろう。もしかしたら少しぐらいは、単純に作業が嫌で帰った子もいるかもしれない。

 花の咲かない季節だからこそ、太陽を独占してよく育った緑色の草を、途中で切れてしまわないように力をこめて、根元から引っこ抜く。

 地面に張りめぐらせた根っこには、最後の力を振り絞って縋り付こうとしたかのように、多くの土がついたまま地上に出てくる。力強く生きようとした証なんだろう。

 しかし、本来それはここにあるべき花ではなく、むしろその邪魔をしているものなのだから、無惨に抜かれたとて仕方がない。

 私は、どうなんだろうか。志摩子は自らに問いかける。

 邪魔にはならないように、努力してきたつもりだ。

 けれど、それならこの草にしたって同じことではないのか。学園を、ここにいるべき子羊たちの揺りかごとしようとする者がいたなら、追い出されたとてこの草と同じで、とても自然なこと――。

 ……やめよう。

 こういう考えは、突き詰めない方が良い。

 無心で草を取る。

 土を払ってビニール袋に入れる。

 生き残るべき花のために、草を殺していく作業。

「あ」

 力が抜けて手が滑り、根の少し上で草が切れてしまう。

 このまま放っておいたら、地面の下の根っこが生きているために、また草が生えてくるのだろう。そうなればまた誰かが抜かなくてはならない。二度手間だし、また生えてくるためのエネルギーだって無駄なものになる。

 かといって、土を掘って完全に抜こうとするのは、労力の割に意味の薄い作業になる。

 失敗した。

 中途半端にためらったばかりに、失敗した。

 志摩子は、緑色の草が少しだけ顔を出した地面を眺めながら、短いため息をついた。

 もしも自分がこの場所を去らなくてはならない時が来たら、手間をかけさせないで潔く消えようと思う――お互いのために。

 志摩子は自らに言い聞かせる。

 その時は、いつ来てもおかしくないのだ――時々忘れそうになるけれど。

 もちろん、お姉さまが学園を無事去るのを見届けるまでは、そんなことは絶対あってほしくない。

 その後なら、未練は何もないはずだ。何もないように努めてきた。

 未練があったら、去りにくくなる。

 だけど――残念ながら志摩子とて、欲深い生き物で。

 去るにはあまりにも惜しい別れがいくつかあって。

 それを思う度に、目を閉じたくなって……自らの弱さを、そこに見る。

「志摩子さん、大丈夫?」

「委員長?」

 委員長の眼鏡の奥で、心配げな瞳がゆれていた。

「今、凍ってたけど。具合とか、悪い?」

「いえ、大丈夫です」

「うーん……そう、分かった」

 委員長はまだ戸惑った顔をしている。実際のところ、志摩子にそんな聞き方をされたら、よほどひどくない限りはrとりあえず大丈夫だって言ってしまうのだろう――悪い癖かもしれない。

 だから、あまり意味はない質問だった。委員長自身も、何となくそれに気づいたのかもしれない。

 ともかく、少しボーッとしすぎたようだ。仕事をしよう。

 今度こそ力をこめて、草と地面を引き離す。今は土は堅くなっているが、春先には、耕して柔らかくすることになるんだろう。その上に肥料やら何やらを混ぜてやるわけだから、必ずしも雑草を抜かなくても花はしっかり育ちそうだ。――むしろ美観の問題か。

 あとは、花のための養分が多少なりともそっちに行く、ということもある。肥料を加えたと手、土に含まれてる養分やら水分やらは有限だし――ああ、そうか。

 放っておけば、どこまでも伸びていってしまうから、キリがないのか。一本の雑草なら良くても、雑草が増えてしまえば、それだけの草を育てるだけの養分も日当たりもここにはないから、潔く全部引っこ抜くことにしているということか。

 どこまでも公平で、少しだけ残酷。

 そんな均一な行為は、人間に対しては決して為されることはない――もしかしたら、私たちに平等に与えられたものは、罪だけなのかもしれない。志摩子には、その考えは少しだけ魅力的に見えた。

(いけない)

 また考えが変な方向に行ってしまった。

 手を動かしているのに、それでも脳が考えようとする。

 酸素を求める金魚みたいに、空を見上げた。空は雲一つなく、どこまでも澄み切っていた――金魚鉢から見る天井はこんな感じだろうか。

 しばらく眺めていると、視点が逆転して、空に放り出されたような気分になってくる。

 虚ろな青の空には、道標がない。放り出されたとて、どこにも辿り着けはしないだろう。広ければ広いだけ、そこは孤独な場所になるのだ。

 ……どうやら透明な空は、タチの悪い鏡のようなものだったらしい。ならば見ないのが正解だ。

 それから志摩子は、無意識にうつむき加減で作業を続け、無事に草取りを終えたのだった。

「皆さんお疲れさまでした」

 委員長の話が、右から左に抜けていく。

「えと、この間も言ったように、明後日雪が積もったら招集ですので。明日会議をします……」

「はい」

「んー、以上……です。それじゃ、解散」

 志摩子は、小走りでその場を去った。

 薔薇の館に行ったら――誰に会えるだろう?

 

                    *

 

 教室に戻ってジャージから制服に着替え、ゆっくりと歩いてビスケット扉の前に来た。

 ざわついていた心は既に落ち着いていた。

「ごきげんよう。遅くなりました」

 扉の向こうに誰がいるか。

「あ、志摩子さんだ。おつかれー」

 由乃さんが真っ先に反応して書類から目を上げた。

 今日も、薔薇の館には全員が揃っていた。来られないことが多いのは、剣道部で頑張っている令さまぐらいだから、当たり前と言えば当たり前か。

「ごきげんよう。丁度良かったわ」「ごきげんよう」

 次に紅薔薇姉妹。祥子さまは何が丁度良かったのかよくわからないけれど。

「紙ばっかり見てると飽きるからね。でしょ、祥子?」

 令さまが微笑んで言った。

「飽きてないわよ、令ったら」

「あ、お茶入れてきます。何かリクエストは?」

 祐巳さんが立ち上がって聞いた。

 ――全員、になるのか。このメンバーが。

 部屋の温度が、急に下がったような錯覚。暖かくなったかと思った心が、再び氷の海に引き戻される。

 さっきこの部屋に入った瞬間。これで全員だと思ってしまえた。そのことが、とても寂しい。

 もちろん、この面々のことは好きだけど――お姉さまはそこにはいなくて。

 元々この場にいないことはしばしばあったとはいえ、ただそこにいない、ということと、そこに絶対いない、ってことはまるで違う。

「志摩子さんはどうする?」

 そんなことが当たり前になっていくんだ、って気づいてしまったから。志摩子は急に怖くなってきた。

「志摩子さん?」

「あ、祐巳さん」

 話を聞いてなかった。

「大丈夫? 手、すごい冷たいけど」

 祐巳さんが、志摩子の両手を握っていた。有無を言わさぬ温もりがあった。

「……そうね。さっきまで外で草取りをしていたから。暖かいものなら何でも」

「ん、わかった」

 祐巳さんが、力強く頷いてくれた。

 背後で扉の閉まる音がした。

 

                    *

 

「あー……終わったわあ」

 三奈子は、燃え尽きていた。

 新聞部の部室。キーボードの上に突っ伏して、情けない声をあげる。

 この部室では見慣れた光景なので、部員達はあまり気にしていない――誰かが面白げなコトを起こしていない限り、三奈子の筆は進まない。

 逆に進み出すと、加速度がついて余計なことまで書いてしまうので、それはそれで大変なことになると、三奈子以外の部員はうすうす感づいている。

 リリアンかわら版・バレンタイン特集号は無事に発行され、デート記事の評判も上々だった。もしかしたら、来年以降も同じ企画が続けられるかもしれない、ってぐらいには上手くいった。

 三奈子自身、それには満足しているのだ。

 しかし、何か物足りないのは、祭りの後の何とやら、ってのともまた違って。

「ほら、お姉さま。脱力してる場合じゃないでしょう」

 唯一スルーしないのは、妹の真美である。

「良いじゃないの、今日ぐらい」

「ここ三日ぐらい、ずっと同じこと言ってますよね?」

 淡々と事実を指摘されると、返す言葉と言えば。

「可愛くないわ……」

 もはや単に因縁を付けているレベルなのは、三奈子も分かっている。

「そんなことは知ってます。で、何が不満なんですか?」

 さらっと流して、真美は続けた。

「バレンタインのかわら版よ」

「評判良かったじゃないですか」

「それはそうよ。でも、レポート切り貼りして載っけただけだから、自分たちのものだっていう感じがしなくて」

「仕方ないでしょう。恣意的に編集しない、って約束だったんですから」

「そうなのよね。もう少し信用してくれても良いと思うのだけど」

「誰のせいで信用されてないと思ってるんですか、お姉さま?」

「そりゃね、私が裏を取らないせい、ってのはあると思うわ。でも、飛ばし記事気味でも情報が新しいうちに書かなかったら、読んでもらえなくなるでしょう」

「否定はしませんが、それだけじゃないでしょう?」

 今日の真美はやけに突っかかるなあ。普段からそういうところはあるけど。

「えーそうですよ。そういう記事じゃないと、書いていて楽しくないもの」

 真美の目線が冷たい。逃れるように、三奈子はまた机とゼロ距離で向き合う。

「あー……誰か何かしないかしら。赤黄色白で黒薔薇と来たから、一周して紅薔薇さまあたりが来るかしらね。カードも拾われなかったし」

 正確に言うと、紅いカードを掘り出すにあたって一悶着あったといえばあったのだが、日曜日の時点で紅薔薇姉妹は仲直りしていたのでノーカンだ。

「お姉さまは、もう少し節度を持つべきです」

 真美が説教を始めようとした時、扉が開いた。

「ごきげんよう」

「あ、桐子さん」

 揖斐桐子。ABCで言うとB子さんだが、真美の名前をアルファベットにしようがないのであまり使われない通称だ。

「ごきげんよう。何か面白げなことは起きていて?」

 新しい人が来て、状況が打開されるかと淡い期待を抱く。

「ええっと、特にめぼしいものは」

 遅刻してきたというだけで期待をしそうになったが、単なる委員会活動である。

「……そうよね」

「そうです。ネタがそうそう転がってたら、苦労はしません」

「あ、でもさっき白薔薇のつぼみが……風邪、ですかねえ? 妙にボーっとしてましたよ」

「詳しく聞かせてちょうだい」

 溶けていたスライムが人型に戻るときみたいに、むくっ、と起き上がって桐子の方を向く。

「は、はいっ! 私が白薔薇のつぼみと同じ委員会なのはご存知ですね?」

 三奈子の目の色が変わったのに驚いてから、桐子は話しはじめた。

「ええ」

「今日はその活動で草むしりをしていたんですが」

「……この寒いのに、ご苦労ね」

「春先まで放っておいてもいいのでは?」

「春までに伸びると面倒なので、だそうです」

「ふうん。続けて」

「それで、白薔薇のつぼみも隣で作業していたはずなんですが、時々手が止まっているみたいで、委員長に心配されてました」

「委員長ってあのメガネの子?」

「そうです、メガネの人」

 三奈子も思い出せないというのは、委員長としては影が相当に薄い部類だ。もっとも、その方が幸せなことも多そうだが。

「遠い目をして空を眺めたかと思ったら、急に草むしりに気合を入れてたり。あれ、でも熱はなさそうでした。見た目ですけど」

「白薔薇のつぼみ、かあ……これは何かありそうね!」

 さっきの予想は覆されたが、かまわない。

 そうだ、白薔薇のつぼみといえば、一年生でありながらもう薔薇さまになるまでわずかなのだ。何か起きない筈がない、と三奈子の本能が告げている!

 実際のところ仮にそんな本能があるなら、もう少し早く気づくべきなのだが。

「以上ですね」

「ありがとう。注意してみましょう。皆さんも、何か気づいたらささっと報告してちょうだいね」

「はい」

 俄然やる気が出てきた。

 白薔薇のつぼみが薔薇の館に行ってしまって、他にどこを突っついて良いか分からない以上、今日のところは動きようがない。必然的に、三奈子にとっては凄くどうでも良い、その他の記事の作業を片付けることになる。

 つまりは、桐子がやってくる前とやらねばならないことはなんら変わらない。だが、三奈子の元気は数段違う。

「お姉さま、本当に薔薇ファミリー大好きですね」

「んー? 焼きもちならありがたくいただくわよ?」

「違いますっ!」

 おやおや。真美さんが珍しく頬を染めていらっしゃるわ。

 なるほど。今まで気づいていなかったが、妹で遊ぶ、というのは素敵な暇つぶしかもしれないな。覚えておこう。

「なんだ、可愛いとこもあるんじゃない」

「何を言い出すんですか、お姉さまは」

 いつもの口調に戻ったけれど。

「口元がちょっと緩んでいるわよ」

「いけませんか?」

「いいえ」

 よし、仕事しよう。

 三奈子は気を取り直してキーボードに向かう。

 隣で真美は優しい目でそれを応援していたけれど、三奈子は気づかなかった。たぶん、そんなお姉さまだから好きなんだろう。



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