サイトトップへ
  小説トップへ

   ↑前のページへ

マリアの厳冬

                    2

 

「えー……えと、一通り皆さん揃ったようなので、んーっと……始めようと、思います」

 委員長は、一定以上の人数の前で喋るのが得意ではないらしい。

「聞いての通り、明日は大雪が降る、という予報です」

 環境整備委員会。つかみ所のない名前ゆえにか、意外と仕事の幅は広い。かつて雪かきは、その中で最もツラいと言われる仕事だったが、最近は大して雪が降らないために、あまり話にも上ってこない。

「昨日来てくれた人にはもう言いましたけど、再確認しておきます。明日、雪だった場合ですが、七時五分にこの部屋に集合した上で――」

 彼女が段取りについて話す声は、私の頭には入ってこなかった。

『ミニ会議あり。すぐ終わるので全員集合!』

 いつものように委員会ボードの片隅を見たとき、委員長の丁寧な文字でメッセージが書かれていた。

 それを見たとき、少しだけ安心してしまった。

 薔薇の館の面々は、昨日もとても優しかった。だからこそ――あの場にいることが、時々凄く怖くなるのだ。

 ここのところはそんなことなんてなかったのに。志摩子は自身の消滅を強く意識してしまうのは――お姉さまが去ってしまうから。

 たかだか半年前に戻るだけ。それまで生きてきたように生きるだけ。いや、それまでよりずっと温もりは近くにあるはずなのに。

 どうしてこんなに、孤独を感じてしまうんだろう?

 雪山で凍えている時に山小屋を見つけたとしよう。そこに入って暖まったからと言って、そこから出られなくなる者がいるだろうか?

 ――やはりそれは、私自身の弱さなのだろう。

 

                    *

 

「では、解散しましょう」

 あなた方がここにいる時間は終わった。行かなくてはならない。そう告げる委員長の一言と共に、私は立ち上がって、会議室を出る。

 ――薔薇の館に行かなければならないはずなのに、呼ばれるように自然に、全く違う方向に向かっていた。

 フワフワと浮いているような、感覚を伴わない歩行。体が押し出されるように進んでいく。

 君は実は、あの青空で風に乗っているんだ。そんなことを言われたら、私は信じてしまうだろう。お姉さまの顔が浮かんだ。

 風が止んだ花びらのように、ごく自然に立ち止まった。

 ここはどこだろう。

 見渡す。寒空のもとで、木々は呼吸を止めていた。

 校舎裏の、桜並木だ。

 一瞬どこだか分からなかったのは、記憶の中の華やかな色彩が全て失われていたから。

 お姉さまと出会ったのは、桜の舞う季節。

 鮮やかな花の中、お姉さまは透き通った目で。かなたを見ていた。まるで、自分以外の誰かにでもなろうとしているように――お姉さまの視線は、とても遠い存在に向かっていた、

 届くことは決してないぐらいに、遠いところ。

 だからこそ、その視線は純粋だった。

 その後目が合って、怖くなって逃げ出した。

 見ているのが辛くなったわけじゃない。その逆だ。その瞳で見つめられるのが、怖かった。私はこの花園にいるべき人間ではない。そのことを見抜かれてしまうと思った。

 あの時お姉さまは、本当は何を見ていたのか。未だに分からないけれど。

 葉が落ちる前に姉妹になって、私たちは、すぐ隣に立つことになった。その事実だけで十分だ。

 隣にいつでもいてくれるだけで、こんなに安らげるなんてことを。私は全然、知らなかった。

 今、桜の木々は枝だけの姿になっている。

 お姉さまが去っていった後、私は――あの時のお姉さまのような目で、遠くを見つめるのかもしれない。

 決して届かない場所を。

 涙で景色が揺らめいた。

 いけない――こんな所で泣くわけには、いかない。

 制服の袖で目元を乱暴に拭った。

 いつまで私は、こんな気持ちでいるんだろう。

 見上げた空は、今日も空白の青。答えなんか書いてはいない。

『もうすぐ春が来るよ』

 何かが、変わるのだろうか。

 私は、変われるのだろうか。

『桜が咲く。新しい出会いがある』

 満開の桜の下で、また誰かと出会えるというのか。

 北風に枝を震わせる丸裸の染井吉野を見ていると、とてもそうは思えない。

 本当は、春なんて来ないんじゃないか。

 この桜はもう二度と咲かないんじゃないか。

 永久に冷たい風に晒される冬が続いて。

 過ぎ去った春を見つめ続ける日々が訪れる。

 それは恐ろしいことなのに、容易く想像できた。

 空は青く、青く、何も映さない――。

 こんなところにいたら、凍り付いてしまう。

「……志摩子さん、どうかなさったの?」

「し、静さま!?」

 背後から声をかけられて、我に返る。

 静さまが、まっすぐに私のことを見ていた。

「ずいぶんと、悲しい目をしていたけれど。どうして?」

 一歩。静さまが、私の方に近づく。

「……お姉さまがいなくなるのが、寂しくて」

「それだけ?」

 もう一歩。立ち止まる。

「ええ、それだけのことです」

 少しだけ、嘘をついた。

 仕方のないことだけど。

「……無理もないわね」

 静さまが、悲しげに笑った。だけど、考えてみれば。

「静さまの方が辛いはずでは」

「どうして?」

「私が別れなければならないのはお姉さまとだけです。だけど、静さまはこの国を離れなくてはいけない」

「ふふっ、なるほどね」

 今度の笑顔には、悲しい気配なんて微塵もない。

「違いますか?」

「確かに、別れは私の方が多いわ。だけど私には、確実に新しい出会いも約束されているから」

「出会いも、約束されている……」

 意味を自らに納得させるために、繰り返した。

「そう。逆に貴方は、春になってもここにいる。だから、別れだけで終わってしまって、対の出会いはやってこないかもしれない。違って?」

「その通り、なのだと思います」

 春が来ないと思ったのは、冬が終わらないからじゃない。冬と春の間に落ちて、進めなくなるからだ。

 あとは、春までここにいられない可能性もある、か。

「それで、白薔薇さまからロザリオを受け取ったこの場所で思い出に浸ってた、ってことね」

「よく、そんなことまで知ってましたね」

「当たり前でしょう。この二年間ずっと、白薔薇さまの方を見ていたんだから」

 自信には一滴の自嘲が混ざっていた。それでも、高らかに宣言してしまえる静さまは、少し格好良かった。

「それに。私がお姉さまと出会ったのも、この場所なんです」

「それは初耳ね」

 言葉は淡々としているものの、静さまの目は爛々と輝いていた。

「ええ。桜の咲いていた頃、私たちはこの桜の下で出会って――その時のお姉さまは、遠くを見てらっしゃいました。とても美しい瞳で」

「遠く、ね」

「遠くと言っても、距離ではなく……今にして思えば、何というか、遠い存在を眺めているようでした。誰か、決して届かない場所にいる人を」

「ええ。言わんとしていることは分かったわ。丁度、さっきの貴方みたいにしていたのね」

「私が……?」

「ええ。決して届かない場所を見ていた――より正確に言うなら。届く場所なのだけれど、届かない場所だと思って見ていた」

「過ぎ去った春は、届く場所でしょうか」

 それともう一つ――私の居るべき場所。だけど、その話はしない。

「それは無理ね。でも、次の春は来るわ。貴方は、そこを見ていたいんじゃないの?」

 次の春が、来る?

「そうは思えないから、悩んでいたんです」

「春になれば分かるわ。昔、白薔薇さまだって、貴方と同じように――いえ、貴方よりずっと酷く、悩んでいらしたのだから」

「お姉さまが……?」

 あのお姉さまが、悩み苦しんでいる姿というのは。漠然とそういう頃もあったんだとは思えても、具体的なイメージが浮かんでこない。

「もしかして、お姉さまがあの時見ていた人、というのは?」

 お姉さまの、お姉さま。まずその単語が浮かんだ。

 それから、別の人の存在を思い出した――なんと言ったっけ、あの方は。たぶんそっちが正解だろう。

「ある程度気づいてはいたけれど、志摩子さん、白薔薇さまの過去のこととか、よく知らないでしょう?」

「ええ」

 私が知っているお姉さまの心は、私と出会ってからのものだけである。

「……聞きたい? 少々、重い話になってしまうけれど」

 静さまは、遠慮がちに言った。

 恐らく、話したら私が傷つくかもしれない、なんて思ってくれているのだろう。

「お任せします」

「な……それはないんじゃない!? 仮にも、貴方のお姉さまの人生よ?」

 静さまが、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして驚いた。その反応自体は普通なんだろうけれど、静さまがそういう表情を見せるのは意外だった。

「私にとっては、お姉さまの過去は重要なことではないんです。聞いても聞かなくても、私の気持ちはきっと変わりません」

「……逆に聞くわ。貴方にとって重要なことは?」

「ただ、お姉さまがそこに居てくれること。私が辛くなった時に、お姉さまがそこにいて手を取ってくれれば――それで十分なんです」

「その言い方だと、白薔薇さまでなくても良かったように聞こえるけれど」

「いいえ。私とお姉さまは、どういう時に相手が手を欲しているか、互いに分かっているから」

「なるほどね。じゃ、白薔薇さまに望むのは近くに居てくれることだけ、ってところ?」

「ええ」

「……これじゃあ、勝てるはずがない、か」

 静さまが、こめかみに指を当てて、目を細めて切なげに笑った。

「良いわ。私が話したいから話す。どう?」

「どうぞ」

「ついてきて。ここは、込み入った話には向いていないから」

 言われてみて初めて、指先が冷えきっていることに気がついた。

 

                    *

 

 どこへ行くのかと思えば、温室だった。それも、今使っているものではなく、古い方の。

 暖かくて人の来なそうな場所、という意味では正しい選択かもしれない。

 公式には使われていない筈なのに、ずいぶんと手入れが行き届いている。いつの時代にも、この場所を愛する人たちがいたんだろう。

 温室を取り囲む棚には、所狭しと鉢が並べられている。

 丁度二人分ぐらいの隙間を見つけて、私たちは座った。

「白薔薇さまと、栞さんとのこと。貴方はどれぐらい知っているの?」

 静さまが、目を伏せながら切り出した。

「ほとんど知らないと思っていただいて結構です。その方の名前すら、今聞いて思い出したぐらいですから」

「そこから説明しなくちゃいけないのね」

「すみません」

「栞さんというのは、聖さまの、俗っぽい言い方をするならば――恋人ね」

 恋人。姉妹とかそういうものではなく。

「あの頃、聖さまは栞さんに相当入れ込んでいたわ。他の何も目に入らない程に。溺れていた、というのが適切かしら。見ていてつらくなるぐらいに、ね」

「つらくなる?」

「そう。あの頃の聖さまは、今よりずっと怖くて――栞さん以外の全てを拒絶するような、そんな目をしていた。少し痛々しくて……すごく、魅力的だった」

 静さまが、熱っぽい目線で虚空を見た。私にまで、その頃の聖さまの姿が見えてきそうだった。

「もちろん栞さんも、聖さまのことを愛していたと思う。栞さんは聖さまの一学年下だったから、姉妹になるという噂だって立っていたのよ」

 互いに愛し合っていたというのか。

「それなら、別れる理由はないのでは」

「栞さんはね。シスターになることになっていたのよ」

 思いもかけない言葉。

「え」

 私とは無関係な人。ついさっきまでそう思っていた栞さんが、急速に重なり合ってくる。

「本人の意志か、叔父さまの意志か……恐らくは、その両方で」

 そんな人が本気で恋をしたら。しかも、その相手が同性だったら……それは罪深いこととして扱われるだろう。

「神の前に身を捧げるべき者でなければ、許されたかもしれない。だけど、彼女達は深く愛し合いすぎたのでしょうね」

「どうなったんですか?」

「栞さんが、転校してしまったわ。去年の冬休み、突然にね」

 愛しすぎた栞さんは、消えてしまった。

「そんなことが……」

 少しだけ、理不尽だ――私がここに未だいて、栞さんは消えているということが。

「栞さんは両親を亡くして。叔父さんの世話になっていたのよ。だから、道を踏み外させるわけにはいかない、っていう意識が余計に働いたのかもしれないわね」

「……そんな」

 それはもしかすると、私にも起こること。

 原因は似ていて、理由は違うけれど――そんな結果を迎えた人がいると聞けば、嫌でも気づかざるを得ない。

 やはり、私がここにいられるのは単なる幸運の産物にすぎないのだと。

「何か言いたそうね」

 私の話をしたくなったけれど――どうにか押しとどめた。これから旅立つ静さまに、そんな荷物を背負わせたって、きっと迷惑なだけだ。

 何も言えずに、首を横に振った。

「やっぱり、ギャラリーが気になる?」

「何のことですか?」

 静さまは、何か勘違いしてくれたらしい。

「あら、違うの? 新聞部の三奈子さんがそこに」

「えっ?」

 振り返って外を見るが、それらしき姿は見えない。

「隠れたみたいね。さっき、あの太い木の影から覗いていたのよ」

 確かに、人が一人隠れるのに十分な太さの木はあるけれど、そこまでして私たちを追いかけてどうしようと言うのか。

「私たちが一緒にいるだけで、何かが起きると思っているのでしょう。それか、私たちが一緒に話している、っていう事実だけで、彼女にとってニュースになりうるのかもしれないわね」

 私と、静さまが一緒にいるから?

「それだけでここまでしますかね?」

「普通はしないわ。でも、三奈子さんの情熱があれば別よ?」

 冗談めかして言いながら、私の方を見て微笑む。西日に照らされた頬は、淡い夕焼け色に染まっている。

「ふふっ、本当に」

 笑い返すと、静さまは正面を向いてうつむいた。

「でもね。彼女の気持ち、分からないでもないのよ。私も……白薔薇さまのことを、あんな風に追いかけてみたかったから」

 静さまは、罪を告白する人のように、薄く目を閉じた。

「去年の夏休みにね。私は、この場所にいた聖さまと栞さんのことを、覗き見ていたの。……あのときの私も。本当は気づかれていたのかも」

 彼女がまた、ふっ、と短く笑う。僅かな後悔と、懐かしさを乗せて。

「思い出話よ。聞きたい?」

「お願いします」

 自然に出てきた言葉に、自分で少し驚いた。静さまが話したそうだというのもあるけれど、私自身が彼女の話を聞きたくなっていた。

 静さまとはもう別れてしまうからこそ、今のうちに話しておきたくなったのだろう。

「去年の夏休みのことよ。私が部活が終わって講堂から出たら、聖さまが鞄で頭をガードして走っていくのが見えたのわ。丁度夕立みたいな雨が降り始めるところでね。聖さまはその日、傘を持ってらっしゃらなかったらしくて」

 いかにも、あの人らしい姿だ。

「私はたまたま折り畳み傘を持っていたから、呼び止めて傘を貸して差し上げようと思った時――聖さまは、栞さんの名前を呼んだ。間が悪かった、と言うほかないわね」

「それで、静さまは……?」

「追いかけていたわ。よく考えるとおかしいんだけれど、その時は聖さましか見ていなかったから」

「おかしいですかね?」

「聖さまはその時、校門の方から歩いてきたのよ? それに、傘を貸すために大雨の中を傘もささずに走り出す人も、あまり多くないわね」

 そう言って静さまは、恥ずかしそうに目を伏せて笑う。

「それから、走って追いかけたのだけれど、聖さまは栞さんと合流した後、雨宿りのためにこの古い温室に入ってしまったの。それ以上追ったら、恋仲にある二人の間に入らなくちゃいけないでしょう?」

「ええ」

 その頃のお姉さまには、栞さんしか見えていなかったのなら――なおさらだ。

「志摩子さんだったら、どうする?」

「私なら?」

 傘を持って追いかけたら、二人で温室に入ってしまった。

 冷静に考えれば、そこに立っていても何もできないから、立ち去るほかにはないだろう。だけど、そもそも傘を貸すために追いかけてきてしまった時点で冷静ではないのだから、冷静に考えることはできなくなっているはず。

「もしも、そこまで追いかけてきてしまったのであれば――私は、自分がどうするのか想像できません」

「答えになっていないわ」

 その言葉に、咎める棘はなかった。

「と言いたいところだけれど、本当にそうよね。その場にいた私だって、どうして良いか分からなくなったんだからね」

 愉快そうに笑っているのは、照れ隠しだろう。

「じゃあ、静さまは実際には……どうなさったんですか?」

「入る勇気はなかったわ。かといって、立ち去ることもできない。だから、温室の二人を外から見ていたのよ」

「でも、見つかったら」

 二人の間に入るより、ずっと困ったことになるはずだ。

「そこに気づかないぐらい、興奮していたのね。それから三十分かそこら、温室の中の聖さまを見ていた」

 憧れの人が、別の恋人と仲良くしている。その風景を見続けるのは、普通は辛いんじゃないだろうか。

「そんな目をしないで。その時の私は栞さんのことが羨ましかったけれど、栞さんになれるなんて微塵も思わなかったから。むしろ楽しんでいたのよ」

 私は、そういうものなのかな、と考えるのをやめた。

 それは、一般論で括れるものではないから。

「あの時、温室の入り口から見て奥の方……丁度今私たちがいるあたりに、二人は座っていた」

 目線で、聖さまたちの行動を追う。

「私は聖さまの姿をよく見たくて、気づいた時にはこの硝子の向こうでしゃがんで、二人を見ていたわ」

 静さまは、すぐ後ろの硝子を指差した。

「それって、見つかってしまわないんですか?」

「後ろを向いて、下に意識が行ったらバレるわね。ただ、酷い雨で硝子が濡れていたから、たぶん顔までは分からない。それに、見つかったら見つかったで良かったんだと思うわ」

「聖さまに、意識してほしかったから?」

「そんなところね。あの視線で敵意を向けられたらどうなるか、興味があったのよ。今になって思えば」

「それで、ずっと二人を……?」

「ええ。最初、二人はバスタオルでお互いの頭を拭いていたわ。濡れた硝子で歪められて……あの時の聖さまは、神々しいぐらいに美しく見えた」

 静さまが、潤んだ瞳で天を仰ぐ。

 あの日の風景を幻視しているんだろう。

 ――西日を背にした静さまの横顔は、時間を封じた人形のように美しく見えた。

「そのあと、栞さんが聖さまにもたれかかって眠った。聖さまは、眠る栞さんの髪と自分の髪を束ねて、三つ編みを作り始めた。その一つが、私の髪だったら良いのに、って。あのときは、心から思ったわ」

「今は、違うのですか?」

「そうね。推測になってしまうけれど、その後二人はより近づこうとして――一つになれなかったから、二人とも深く傷ついたんだと思うのよ。もし私の髪まで三つ編みにしてもらえるような位置にいたら、聖さまは、もっと深く傷ついていたかもしれないし、私も今頃ここにはいないと思うわ」

 静さまは、一呼吸置いてから、上半身ごと私の方に向き直った。

「そうしたら、貴方とも出会えていないのよ――藤堂志摩子さん」

「静さま」

 私は、どうして良いのか。今度は本当に、分からなくなった。

「今更言っても仕方のないことだけれど――貴方とは、もう少し早く出会いたかったわ」

「静さまは遠くに行ってしまいますけれど……時間が終わるわけではありません」

 さっきまで考えていたことと矛盾しているような言葉なのに、自然に口から零れ出した。

 そう。遠くにいるのといないのは、全然違うんだ。

「ふふっ、貴方にそれを言われるとは思わなかったわ」

 静さまが、私の手を優しく押さえつけた。

 もう片手の指先で、私の頬に触れる。

 端正な顔が近づいてきて、意図が漸く掴めた。

 抵抗しようなんて気は起きなかった。

 絡みつく視線。近づく体温。止めない。

 唇同士が、交わって。

 一拍おいて、離れていった。

 あっけないのに、後を引く。

 静さまの口づけには、妙な魔力があった。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 言葉の意味なんか忘れて、繰り返した。

 去っていく背中を目で追いながら。

 私はさっきの気持ちを思い出していた。

 遠くに行っても、どこかに相手がいるのなら――絆が消え去るわけじゃない。

 そんな当たり前のことに、今更気がついたのだ。

 辺りを見回せば、時代を超えて愛でられてきた花々があった。この花達は、別れの度に出会いがあって、ここまで生き抜いてこられたのだ。

 だから、私だって――きっと、生きていける。

 目を閉じる。

 キスの味が、まだ残っている気がした。



    ↓次のページへ  




小説トップへ   
サイトトップへ 





 1 在らざる手
 2 巡る冬
 3 雪解け