3
白薔薇のつぼみが会議室から出てきた。
三奈子は、少し距離を置いて彼女の後を追う。これで薔薇の館に向かうようなら、普通に部室に戻ろうと決めて。
だが、実際には違った。彼女は昇降口で靴に履き替えて、校舎から出て行った。
――帰るのならもう追わなくて良いかとも思ったが、何だか諦めきれずに、その後に続いて外に出た。
結果的には、その選択は正解だったと言えよう。
校門の方に向かうのかと思ったら、まるで見当はずれの方角に進んでいき、校舎裏の桜並木の下で急に立ち止まった。
何をするのだろうか。
三奈子が物陰から期待の目線を送っても、何も動きはない。ただ立っているだけで、時折空を仰いだり、うつむいたり――聞いていた通り、少し様子がおかしい。
いや、これから何か起こるために緊張しているのかもしれない。
誰かと待ち合わせだとか。
三奈子の予想は、どうやら当たっていたらしい。
三奈子の後ろを通り過ぎて、なんとまあ蟹名静が、藤堂志摩子に話しかけた――これは、面白くなってきたぞ。
さっき後ろを通り過ぎた時点で気づかれていた、なんて考えもしないのが浅はかなのだが、それは後から気づくこと。
二人は何やら話しているが、内容までは伝わってこない。これ以上近づこうとすると、姿を見られてしまうだろうし。
(くぅー、聞きたい聞きたい聞きたいっ)
つけてもバレない小さいマイクとかあったら良いのに。もしくは強力な地獄耳。
だけど、諦めるのはまだ早い。この後彼女たちがデートの続きを始めないとも限らない。
(……コートぐらい着てくるんだったわ)
特に何もないだろうとタカをくくっていたのは、大間違いだったらしい。
しばらく見ていると、二人が私のいる方に歩いてきて、慌てて木陰に飛び込んだ。
二人が何も言わず、私の立っている後ろを通り過ぎていく。ちょっと心臓に悪い――いや、いっそしれっと挨拶でもすれば良かったかな?
十分距離が離れたのを見計らって、二人の後を追っていく。高等部の校舎から離れて、あまり人気のない講堂やお御堂のある方に向かう。
何をしようと言うんだろう。
デートの続きに向いた場所があるわけでもなかろうに。
数分後。
三奈子は古い温室を囲む木の裏側で、一人興奮していた。
古い温室で、二人は何かを語り合っている。彼女たちに共通の話題と言えば――白薔薇さま。
一回、蟹名静が私の方を見たので、慌てて隠れた。その後も普通に会話を続けているところを見ると、バレてはいないのだろう。
このまま延々話を続けるのだろうか。
本当に、隠しマイクが欲しくなってきた頃。
静の手が、志摩子に触れた。
(お?)
三奈子は何が起きるかを見逃さないために、狐のように目を細めた。
静の横顔が、志摩子に近づいていって――口づけた。
(今、くっついてたわよね?)
三奈子は、心の中だけでガッツポーズをしたつもりが、実際にそうしていた。その間に、蟹名静は立ち上がって、温室を出ていってしまった。
後に残された藤堂志摩子の表情は、ここからでは伺えない。
(隠しカメラも欲しいわね)
カメラ娘がにやーっ、と笑っている顔が浮かんだ。んなこたどうでもいい。ここから分かるのは、志摩子が俯きながら、ゆっくりと肩を上下させている様子だ。
最初は泣いているのかと思ったが――ずっと規則正しいリズムで動いている。明らかに、眠っていた。
「大物、というのかしらね」
三奈子が最初に見たときは、薔薇の館に行くのかと思ったが、眠っていて良いのだろうか。今日は薔薇の館はお休み、なんて話も聞いていないが――まあ、そういうところには抜かりのない白薔薇のつぼみのことだ。大丈夫だろう。
さすがに、これ以上ここにいても何も起こるまい。
そう判断して、三奈子は部室に戻ることにした。
気分は最高だった――放課後の温室で蟹名静と藤堂志摩子が口づけを交わすところを覗けたのだ。
どう記事にしよう。口笛でも吹きたい気分だった。
*
部室に行く時間が遅くなって、三奈子の仕事は溜まってしまっていた。付き合わせるのも悪いので、一年生組を真美も含めて、一足先に帰らせた。
一人で一仕事終えた三奈子は、駅に向かうバスに乗り込み、二人席の窓にもたれながら目を閉じた。
結局、さっきの一件はまだ記事としてどうするか、扱いかねていた。
あの温室で二人がキスをしていたのは確か。だけど、写真も何もないし、見たのは三奈子一人だけだ。
二人に否定されたら、私が勝手に変なことを言っているだけ、みたいな形になりかねない。まだもう少し、証拠を集める必要があるし、覗き見だけを元に記事を書いたのではやはり体裁が悪い。
――と、真美に言われたのだった。
もっともすぎて反論のしようがなかった。
しかし、三奈子は決めていた。月曜日までに材料を揃えてみせて、来週の『リリアンかわら版』に載せようと。
「志摩子さん、どうしたんでしょうね」
後ろの席から声が聞こえて、ハッとした。
福沢祐巳だ――!
「分からないわ。何か用ができたのなら、たぶん言っていくだろうし」
ということは当然、お姉さまの小笠原祥子もいる。
そして議題は、白薔薇のつぼみ。気づかれないように聞き耳を立てた。
「委員会が長引いたとか」
「活動状況の掲示板には『すぐ終わるので全員集合』って書いてあったわよ」
藤堂志摩子は、薔薇の館に行かれなかったらしい――帰ってしまったのか、それとも温室でずっと眠っていたのか。
キスをしたからと言って、仕事を残して勝手に帰るタイプだっただろうかと考えれば。恋人同士ならむしろ怪しまれないようにするはずだ。恐らくは、後者。
そして、祥子達が今帰る途中であると考えると――まさか、まだ温室で眠っている!?
起こすべきだったのかな、と今さら思った。
いや、起こしたら覗き見がバレるから起こせなかったわけだけど。
「体調が悪そうには見えなかったのよね?」
「ええ、あまり……あっ」
福沢祐巳が小さな声をあげた。
「何?」
「思い出したんですが、昨日薔薇の館に来た時……最初だけですけど、妙にボーッとしてました、志摩子さん」
「そうだったの?」
「外で草むしりをしていたから、寒さのせいかなとその時は思ったんですが」
「そのせいで、風邪をひいたのではないかしら?」
「……かも、しれません」
後ろの二人は沈黙したが、三奈子の頭の中は騒がしかった。風邪じゃなくて――心理的なものが原因だとすれば、話の流れと一致する。
やはり、藤堂志摩子は蟹名静と何かあって、そのせいで気が抜けたようになっているんだろう。
その「何か」の内訳が問題だ。それを突き止めれば、自ずと記事は書けるはずだ。
「雪、降りますかね」
「……できれば、降らないでほしいわね」
「どうしてですか?」
「寒いじゃないの」
「ふふっ、お姉さまらしい」
そうだ、明日は大雪が降ると天気予報が言っていた。
リリアンの雪かきは、環境整備委員会の担当だったはず。
藤堂志摩子も、恐らく来るだろう。もしかしたら、蟹名静とまた何かあるかもしれない。早朝の雪の降る学校――もし恋人同士なら、素敵なシチュエーションになりうる。
見逃すわけにはいかない。
明日は、早く学校に来よう。
*
「……嘘」
私はいつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
陽が落ちて、温室の中は真っ暗になっていた。
静さまは行ってしまったし、三奈子さまももういないだろう。ここには、私一人だけだ。
花達だけが、私を見ている。
温室の存在意義である花たちが。
花たちを慈しみ育てる温室が。
空間全体で、私を責め立てるようだった。
ここは愛されるものの場所だ、と。
子羊の群れの狼を、取り除かなくてはならないと。
急に怖くなってきた。私は何をしていたのだろう。
委員会に出た後、フラフラと桜並木を見つめていたら静さまに出会って、ここに来て――そうだ。
薔薇の館! 薔薇の館に行かなきゃ。
弾かれるように、逃げるように、走り出した。
植木鉢のない隙間を抜けて、出口のドアを引っ張る。開かない。引っ張る。開かない。回して引っ張る。開かない。どうして。もう一度繰り返す。開かない。嘘でしょう?
限界まで回してから、扉を引く――開いた!
暗い闇へと飛び出して、薔薇の館目指し駆けてゆく。
着いたら真っ先に謝らなきゃいけない。仕事が溜まっているはずだ。
酷く既視感のある感覚の中を走る。立ち止まったら凍りつきそうなほど寒い。温室で延々眠っていたせいだ。
青白く照らす灯りの下を折れて、薔薇の館に飛び込んだ。
「……そんな」
部屋の中には、人の気配がなかった。
背後の扉を閉めると、中は完全に闇に占拠された。光は殆ど入ってこない。
誰もいなくなった館。
私だけがいなくなった館。
「く……うっく」
膝から床に崩れ落ちて、惨めに涙を零しつづけたのだと思う――何も見えることは、なかったけれど。
*
「行ってきます」
小さな声で挨拶をして、私は家の扉を閉めた。
夜明け前の静寂に抱かれた小寓寺には、しんしんと雪が降っている。
布団を出ただけで、寒さで震え出しそうになった。
見える範囲は全て白い雪に覆われている。深さにして三十センチぐらいだろうか。一歩一歩が雪の中に沈んでいく感覚は、生まれて始めてかもしれない。
暗闇と白い雪に覆われて、色を失った坂道を、滑り落ちないように気をつけて歩く。
バス停までの道では、誰にも出会わなかった。
本当は、この暗闇の中には誰もいないんじゃないか。
そんな風に心細くなってきたとき、バスのライトが私のことを照らした。
*
「――次はT駅、T駅です。N線、O線はお乗り換えです。モノレールご利用の方に、お知らせいたします。ただいま、雪のため――」
電車が橋を渡る音で、浅い眠りから覚めた。
ここまで早起きすることはあまりないから、珍しく眠ってしまったんだろう。
目を開けて、向かいの窓の外を見た。
上りかけた朝陽が、水面に映る。
遠くの橋に見える橙色の灯りの連なりが、列を成す提灯に見えた。
人の作ったものなのに、人の気配がしない景色。
橋の上を浮かぶように一塊になった灯りが通り抜ける。
アレは本当に生ける人の乗り物なんだろうか。
三途の河、という言葉が浮かんだ。
*
M駅に着いた頃には、朝日が町に降り注ぎ――雪の層は、ずいぶんと薄くなっていた。
その時から、予感はしていたのだけれど。
集合場所の会議室に着いたとき、それは確信に変わった。
部屋は開いておらず、誰も雪かきになんて来ていない。
大して雪が降っていなかったので、たぶん優しい委員長は雪かきを中止にしたのだろう。そういう場合は電話があると言っていた気がするが――勘違いかもしれない。
ここのところ、私は上の空だったろうから、仕方がない。
来てしまったのだから、一応雪かきをしておこう。そこを通る人々のために。
それに、作業しているうちに、私と同じように間違って来てしまった誰かが加わるかもしれない。
一旦教室に戻って着替えた後、物置から先の平たいスコップを取ってきて、私は一人、銀杏並木の下で雪かきを始めた。
白い雪の層は、決して厚くはなかった。スコップを入れれば容易に地面まで届くし、それを道ばたへ放るのも大した力は要らなかった。
一旦雪の層に開けた穴を、徐々に拡げていくようにして、黒い通り道を作っていく。
「ごきげんよう。お仕事ご苦労様です」
名も知らぬ生徒が、私に挨拶をしていった。
「ごきげんよう」
私が挨拶を返すと、ハッとして走り去っていってしまった。何かあったんだろうか。
また雪かきを始める。
徐々に雪のない範囲は広がっているが、先はあまりにも長そうだ。
雪の表面は、殆ど真っ白だった。
まだあまり通る人もいないから。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
かけられた声に返事をして、彼女の方を見ると、通り過ぎていくところだった。少し寂しい。
しばらく作業して、どれぐらい進んだかと振り返ってみてみる。……全然進んでいるとは言いがたかった。時間いっぱいまで作業をしても、この並木道の一割ぐらいが良いところだろう。
表面が溶け始めた雪を踏む度に、靴の中に少しだけ水分が侵入してくる。背中は陽が当たっているのに、足の先だけが冷たくなってゆく。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「し、失礼しましたっ!」
なぜか緊張したように私のことを呼んだその人は、私の顔を見て走り去っていった。何だろう。顔に雪でもついているのかな。
腕で拭ったが、何も取れはしなかった。仮にそうなら、普通に指摘してくれるだろうし。分からない。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、なんだか虚しくなってくる。
そもそも、私は何でこんなことをしているんだろう。
集合時間からはだいぶ過ぎているのに、誰も来ていない。ならば、委員会の仕事ではもはやないはず。
朝練の生徒ぐらいしか通らない銀杏並木。
寂しくて、涙が出てきそうだ。
私がしていることは、何の役にも立たない。
今の私は、確かにここで存在を認識はされている。けれど実際に私がしていることは、きっと何の役にも立たない。
それは――消えても同じ。いわば幽霊のようなものなのではないだろうか。
そして。
それが私の、この場所での、正しい在り方なのではないだろうか。
消滅して困る存在になってはいけない。消滅する可能性は、人よりきっと高いのだから。……寂しくて。凍えて倒れそうな日があったとしても、それが私に課せられた試練であり、元々の姿なのだというのではないか。
だけどお姉さまは、そんな風には言わなかった。
無事に卒業するまでここにいるなんてことを、疑いもせずに当然のこととして。
ここで新たな出会いをして、新たな関係を築くために、一歩を踏み出せと、そう教えてくれたのではなかったか。
私は、どうしたらいいんだろう。
中途半端に雪のよけられた銀杏並木。
目の前がぐらぐら揺れる。スコップを取り落とす。
――存在しない救いを求めて、私は駆け出していた。
*
お御堂には、誰もいなかった。
空気は時間を凍らせていた。
背後の扉が勝手に閉まる。
一番前の座席へと、ゆっくりと進んでゆく。
磔にされたイエス様の像を仰ぐ。
なぜ、こんなに辛いのだろう。
お姉さまが卒業してしまうから?
たぶん、元を正せばそれだけのこと。
信仰と家庭の問題だって、お姉さまの卒業に比べれば些細なことなのだ。
私にとって、お姉さまの前は――唯一、心の鎧を完全に脱げる場所。無防備で脆いからと言って、一線を越えて踏み込んでくることは決してない。そんな不思議な関係は、とても心地よかった。
……他の誰かの前で、そんな風に素直になれるのか。
私はこの場所で、お姉さまと同じぐらい優しい人たちと既に出会っているはずだ。
だけど、勇気が出せない。
拒絶されるのが怖いから。
脆い心に触れられるのが怖いから。
善意の人だけで世の中ができていると信じるには、私は年を重ねすぎたから。
――汝自身を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ。
ならば、隣人を信用することは、その第一歩だろう。
(マリア様、イエス様……罪深い私を、お許しください)
祈りとは、速効性のあるものではない。
だから、今目の前にある問題は、祈ったって仕方ないもののはず。
それでも、祈らずにはいられなかった。
いや。祈ることしか、私はできなかった。
きっと天まで届くと信じて。
きぃ、と。
扉の開く音がした。
とっさに振り返ると――光の中に、一人の女性が立っていた。
……マリア様?
「何があったの?」
つかつかと私の方に歩み寄ってくる。それで、私はその人が人間だと知った。
「三奈子さま?」
「なぜ、そんな悲しい目をして祈るのか。良かったら、教えてくれないかしら」
「どうして……?」
純粋に疑問だった。だって、三奈子さまが私の悩みを聞いてくれる理由なんて、ないはず。
「ああ……記事になんて、しないわよ。信用ないのね」
意味を取り違えたらしく、三奈子さまは苦笑いしている。
「いえ、そうでなくて」
「さっき、雪かきをしている貴方を見ていたら、とても辛そうに見えたから」
三奈子さまが、私の隣の椅子に鞄を置いた。
「それだけで……?」
三奈子さまと言ったら、新聞のためにいつも無茶ばかりしているだけの人かとさえ思っていたけれど。
実は、違ったのだろうか?
「昨日ね。私、温室の貴方たちのことを覗き見ていたわ、貴方が眠ってしまうところまで。だけど、起こさずに行ってしまった。後で祥子さんたちが貴方のことを心配しているのを見て、ようやく起こした方が良かったんじゃないかって思ったのよ」
無茶した結果ではあるけれど、確かに優しかった。
「でもそれは、三奈子さまが責任を感じることではないと思います」
「起こした方が良かった、ってところは否定しないのね」
「それは……はい」
昨日薔薇の館で泣いたときのことを思い出す。
世界の終わりみたいな気分だった。
「迷惑だったかしら? それなら、退散するけれど」
「お姉さまが。……卒業してしまいます」
何の前置きもなく。言葉が、溢れてきた。
「それが悩み、でいいの?」
「それに。私は本当は。ここにいていい人間ではないから」
迂闊に本音まで零れ出す。どうにか子細はぼかしたけれど、話すつもりなどなかったのに。
「静さんは、関係ないのかしら」
「静さま……どうして? 三奈子さまの、勘違いかと」
「本当にそのようね。で、その理由というのは、私に話せるものなの?」
「……申し訳ありません」
「いいわ。もう片方の相談に乗りましょう」
「お姉さまの前は私にとって、唯一安らげる場所でした。心を無防備なまま安心して曝け出せるのは、お姉さまの前だけなんです」
三奈子さまは、とりとめもない始まった私の話に、黙って頷いている。
「だけどお姉さまは、春が来れば変わる、って言ってくれたんです。春が来れば、また同じように心を許せる誰かと出会える、って」
「そうね」
「だけど、その春が、出会いの季節が、訪れるってことに、全く実感がわかないんです。このまま、ずっと冬が続くみたいで、ずっと――そんな出会いは、こないんじゃないか……って」
「目を閉じて」
「え」
疑問を感じながらも、反射的に言葉に従っていた。
私の体が、三奈子さまに抱きとめられていた。
「まずは暖まってちょうだい。考えるのは、それからにした方が良いと思うの」
「三奈子さま?」
「貴方は、何かに怯えている。違う?」
何も言わずに、頷いた。
「春っていうのはね。氷が溶ける時、よ」
「氷……?」
「そう。現に、貴方の心を守っていた氷は、私の前で少しだけ溶けているでしょう?」
「それは、三奈子さまが、とても優しかったから」
「ありがとう。だけどここには、私なんかより心の温かい人が大勢居るわ。……例えば、祐巳さんだとか」
「奇遇ですね。私も同じことを考えました」
「ならば彼女に心を許せば良いんじゃない?」
それは、たぶん受け入れてもらえるだろうと、頭では分かっている。
「だけど、勇気が要ります」
「あのねえ。誰も、心を完全に晒してなんかいないのよ?」
「……え?」
「当たり前じゃない。怖いのは、みんな同じなんだから。ただ、氷が厚すぎると自分が凍えてしまう、ってだけの話よ。心を守るための氷なのに、それで凍えていたら意味がないわ」
言われてみて、初めて気づいた。
私は、焦りすぎていたんだ――一歩踏み出そうとしていたんじゃなく、何の準備もなく駈け出そうとしていた。
「三奈子さま……」
「参考に、なったかしら?」
三奈子さまの瞳が少し不安そうなのは、こういう相談に慣れていないからなんだろう。
「ええ、とっても」
だから、今できる極上の笑顔で答えた。
「そう、良かった。もう少しあったまっていく?」
三奈子さまが、安心して笑う。新聞が絡まなければ、きっとこういう人なんだろう。
「……折角ですので」
人肌がどうのとかいう前に、単純に寒かった。
「聖さまも勿体ないことしたわね」
「どうしてですか?」
「悪くないわよ、貴方の抱き心地」
三奈子さまが、大真面目な顔で言った。
それが何だか急に面白くなって、私は堰を切ったように笑い出した。
「私、そんなに変なこと言ったかしら?」
ちょっと不満そうだが、まだ私の体を離しはしない。
「でも、もう大丈夫そうね」
「ええ。どうにか頑張れそうです」
「良かったわ」
自分のことのように微笑む三奈子さまは、やっぱり凄く優しくて。
「落ち込んでいたら、遠慮して取材にならないじゃないの」
相変わらず、困ったお人なのだった――。
それから私たちは、お御堂の扉を開けて外に出た。
外では溶けた雪が光を反射して、真っ白くキラキラと輝いていた。
「眩しいわね」
三奈子さまが、目を細めた。
「春が、近いのでしょう」
三奈子さまは小さく頷くと、校舎に向かって歩き出した。
私は空を見上げる。
どこまでも自由に行けそうな、清々しい青空。
春はもうすぐこの向こうから、誰かを連れてやってくる。