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怪盗セイント・シュガー

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 七月の半ば。梅雨は過ぎ去って、暑い夏が始まろうとしていた。

 M駅でバスから降りると、あたりはホットプレートの上みたいに暑かった。前を歩く高等部の子たちが、好みのアイスクリームの味を議論し始めた。リリアンの制服は、日光を熱に変換することにかけて非常に優れている。私も去年までアレを着ていたわけだけど……良く耐えたもんだ。

 まあ、夏の暑い盛りに学校はないからか。

 風の噂、もとい蓉子の話じゃ、祥子と祐巳ちゃんは無事に仲直りしたらしい。なので、今の聖にとって心配なのは、期末試験ぐらいのものだった。

「そこの聖さん」

「え?」

 知り合いかと思って、声のした方を見たら、看板が立っていた。

『占い・人生相談・懺悔承ります。秘密厳守』

 怪しい占い師の類のようだが、懺悔ってなんだ。

「今のとこ、悩みなんかないんだけど……って、え?」

 看板の影に居た人の姿には、見覚えがあった。

 シスターの格好をした彼女は、確かに――。

「……栞?」

「久しぶりね、聖」

 一瞬だけ。陽炎みたいに、世界が揺らいだ。

 でも、すぐに正気を取り戻す。頭の中で、色んな疑問が泡みたいに浮かんでは消えていく。だけど、不思議と取り乱したりはしなかった。

「……ええ。元気だった?」

「最初は辛かったけど、今は元気よ。聖は?」

「同じね」

 何せ、取り乱す必要もない。目の前にいるのは、あの時の私の世界に救いをもたらす聖女ではなく――一人の、少女なのだから。

「何でここにいるの?」

 教会の手伝いなどをして過ごしていたと仮定しても、駅前で占い師はないだろう。

「私、シスターになるのはやめたのよ」

「……どうして」

 聞かずにはいられなかった。

 ……あの時、私達はあんなに愛し合っていて。それでも選んだ道を、捨てる程の出来事って。

「私はね、沢山の人を救いたいと思ったから、シスターになりたかったの。だから、聖とだって別れなきゃならなかった」

「……それは、知ってる」

 結果的には、そうなって良かったであろうことも。でなかったら今頃、どこかの湖に二人で沈んでいるだろう。

「だけどね。シスターに救えるのは、神様を信じてる人だけだから……あの時の聖みたいな人を救えるのは、絶対にシスターじゃないから」

 ……要するに。シスターの限界を、私との一件で気づいてしまった、ってことか。

「……でも、占い師にも救えないと思うわよ?」

「知ってる。それに、実際の聖はとっくに救われてるもの」

「そうね」

 もっとも、それができたのは、回りの人達に恵まれていたという幸運によるものだけど。

「だから。そんな聖に、人を救う手助けをしてほしいの」

「私に……できるのかな?」

 栞みたいに信仰も理想も持っちゃいないけれど。

「大丈夫よ。多くの人が求めてるのは、生きている間の救いなのだから」

「……そうね。手伝うわ」

 これは、贖罪というものではない。

 むしろ、共犯関係、といった方が近いものだった。

 

                    *

 

 翌日は、世界がホットプレートになったみたいに暑い日だった。

 黒板に書かれていく文章を眺めながら、考える。

 栞はあんな風に言ってくれたけれど、実際何をして良いのやら全く分からない。私達による救いとやらが必要そうだった人は、未だ一人しか現れていない。

 その一人の悩みというのが、また救いようがない。

 栞のところに現れたその男は、昨今流行りの振り込め詐欺の片棒を担いでいたのだという。ところが、騙した相手のお婆さんが電話口で生活の窮状を訴えるのを聞いていたら、申し訳なくなってしまったらしい。それで、刑務所に入っても構わないから、詐欺から足を洗いたいのだという。

 普通に考えたら、警察の領分だ。少なくとも占い師がどうにかする問題ではない。通報して逮捕してもらっても何ら問題はないだろう――社会的には。

 だが、彼の願いというのは。

「捕まったら、詐欺で手に入れた金は国庫に入る。それだとまた金持ちに戻っていくだけだ。だから、何とかもっと困ってる人達に届けてあげたいんだ」

 こないだまで詐欺をやっていた人間の言い分とは思えないが、案外そんなもんなのかもしれない。

 悔い改めた人間になら、救われる権利はある。

 それに彼は別に、法の裁きを拒んでいるわけではないのだ――彼のささやかな願いを叶えてやって、いけないことはあるまい。

 ただ、その方法が少しばかり難しい。

 振り込め詐欺であるからして、その金は銀行口座の中にある。そして、その口座はグループのリーダーに管理されている上に、度々変更されているのだ。だから、以前に誰に振り込ませたのかの履歴は既に分からず、返すこともできないのだ。

 おまけに、そのリーダーは疑り深い男で、どうなだめすかしても口座を直接触れさせてくれることはないのだという。

 ……限りなく、手詰まりに近いのではなかろうか。

 

 何となく考え事をしているうちに、授業が終わっていた。

 校舎を出ると、いつの間にか空には薄暗い雲が出てきて、湿ったぬるい風が重々しく吹いている。

 これは、一雨来るかな。そう思いながら歩いていると、目の前に見覚えのある猫が横から現れた。

「お、ゴロンタだ」

 最近は大学の方にも出没しているのか。

 女子大生までたらし込んでいるのか、この雌猫は。

 私の前を先導するように、しばらくは門へと続く道を進んでいたが、途中で植え込みの隙間へと入っていった。そっち側に進むと高等部の敷地になる。

 私はまっすぐ帰るとするか。雨も降りそうなことだし。

「にゃあ」

 だが、植え込みの影から呼び止められた。

 ……ついてこいとでも言うのか?

「にゃ」

「わかったよ」

 林の奥へと、猫の道を進んでいくゴロンタ。私はちょっと迂回しながらも、追いかけていくことにした。

 林の向こうは高等部だ。

 木陰からマリア像へと続く道に出ると、一粒目の雨が私の髪を濡らした。冷たい。

 それが早送りのスイッチだったみたいに。雨は突然容赦なく降り注ぎ始め、ゴロンタは勢い良く駆け出して、私もそれを追うことになった。

 雨宿りできる場所に連れていってくれるんだろうな?

 道なりに講堂の隣を走り抜け、その先の建物へと転がるように飛び込んだ。

 ……なんでよりによって、こんな場所なんだ。ゴロンタよ。

 雨に閉じこめられた古い温室。それは、私の中で時を止めていた場所だった。

 あの時は栞が私に寄り添っていたけれど、今ここにいるのは。

「志摩子、どうしてここに?」

「……お姉さま?」

 失われた時が、巻き戻るような感覚。

「一応、この部屋は委員会の管轄でもあるので。お姉さまは、どうして?」

「ゴロンタについてきたら、こんなとこまで来ちゃってね」

「豪徳寺の招き猫の話みたいですね」

 ああ。確か、猫が手招きしているからお寺に寄ったら雨が降った、という話だったか。

「それにしちゃ、間に合ってないけどね」

 首を振って、髪についた滴を振り落とす。それと共に、何かが軽くなったような気がした。

 ゴロンタも同じぐらい濡れているのかな、と思って見てみたら、ゴロンタも全身を震わせて水気を払おうと頑張っていた。

「ふふっ」

 何だかおかしくなって、笑いがこみ上げてきた。

 何だって、私はこんなとこで猫と仲良く濡れ鼠してるんだろう?

「お元気そうで何よりです」

「ん、まあね。志摩子も。妹、できたんだって?」

「ええ。機会があったら、ご紹介しますね」

「そっか……志摩子も、お姉さまか」

 時は確かに、流れていた。

 私は短い髪を何とも思わなくなり、降り出した雨は急激に激しさを増し、空は禍々しい程に黒く染まっていた。

 その雲を裂いて、一筋の光が地上に落ちる。それから爆音が轟くまで、一秒足らず。

「こりゃ、相当近いわね。志摩子、傘持ってる?」

「いいえ」

「じゃ、しばらくここにいるしかないか。ちょっとすれば止むでしょ」

 窓際に置かれた棚に腰掛けると、膝の上にゴロンタが乗ってきた。野生に戻れなそうだな、コイツは。

「あの、お姉さま……雷の時に窓際は危ないかと」

「まさかここに落ちやしないわよ。低いんだから」

 志摩子に向かって手を差し伸べた。

 こっちに来い、という程度のつもりで。

 その手を取った志摩子にしたって、同じ気持ちだろう。

 だけど、手が触れた瞬間に――電流が走った。背中から脊髄、指先を通って志摩子まで。

 その時私の体は勝手に、志摩子を引き寄せていた。

 体中を焼かれるような痛み。その中で、志摩子が私に倒れかかってくるのを見ながら……私は、意識を失った。

 

                    *

 

「聖さまー、起きろにゃ」

 聞き覚えがあるのに、するはずのない声で起こされた。

「……ゴロンタ?」

 重い瞼を上げると、さっきと同じ温室の中だった。

「全く、死ぬかと思ったにゃー」

「……私、頭がイカれたのかな」

 猫が、聞いたこともないような不条理な訛りのある日本語を喋っている。

「お姉さま!」

「あ、志摩子。おはよう」

「良かった……私達、雷に打たれたんですよ?」

「うそお?」

 普通死なないか、それは。

「私も信じられなかったんですが、それ以外には思い当たる節がなくて」

「この子、天窓をなおしちまったのにゃ」

「へえ。志摩子、どうやったの?」

「……何のことですか?」

 ……どうやら、ゴロンタの言葉を人語として解せるのは私だけらしい。私の膝の上にいたからだろうか。

「ええっと、天窓を直した……んでしょう?」

「……魔法です」

「へ」

「私、なぜか……魔法少女になってしまったんです」

 まほーしょーじょ。

「なんじゃ、そりゃ」

「どんな魔法が使えるのか、まだ良く分からないのですが……たぶん、雷の衝撃で」

「……そういうことも、あるかもしれないわね。私はさっきから、ゴロンタの声が日本語で聞こえるのよ」

「今までは聞こえてなかったのかにゃ?」

「当たり前でしょ」

「そんにゃー、道理で時々冷たいと思ったにゃー」

「ふふっ、お姉さまったら」

「いや、本当に」

 まあ、信じられないのも無理はないか。端から見たら、ただの猫に話しかけている人なんだろうから。

「……そうですね。私も、魔法が使えるようになったことですし」

「ねえ。折角だから、その魔法見せてよ」

「良いですよ。何を試しましょうか?」

「この雨を止ませてみる、というところでどう?」

「……やってみます」

 その後、彼女は不思議な呪文を唱えた。

「ロサロサギガギガギガンティアッ!」

 彼女の体が光に包まれ、服装が唐突に白のローブに替わる。……この段階で、それは十分に魔法と呼べる代物だったのだが。

「雨よ、やみなさーいっ」

 所要時間、十秒ほど。

 まだ空は薄暗いままだったけれど、雨音はスッと消えた。

「このような具合です」

 再び光に包まれ、制服に戻った志摩子が言う。

「……良いなあ」

「お姉さまは、使えないのですか?」

「へ、どうして私が……あ」

 そうか、その呪文だったらひょっとしたら。

「やってみるわね」

 ええっと、確か。

「秘密の呪文で大変身! ロサロサギガギガギガンティアーッ☆!」

 あたりが静まり返る。

 いや、元々静かだったのか?

 ともかく、私の身には何も起こらない。

「ううん、私だけだったみたいですね。そのフレーズ、使わせてもらって良いですか?」

「構わないわ」

「アホだにゃー」

「うるさいよ、ゴロンタ!」

 気配を察して、ゴロンタが私の側から逃げ出す。

 反射的に追いかけ始めると、何だか体が凄く軽かった。

「お姉さま、身のこなしが良くなってませんか?」

「んー、そうかも」

 ゴロンタが古い温室から駆け出す。私に追いつかれそうになると木に飛びついて、しがみつくように登っていく。

 本能的に、その隣の木に登っていた。手を引っかけ、足を引き上げ、また手で上へ。その一連の動作が、呼吸をするようにスムーズにできた。

「ふっふっふ、追いついたぞ」

「おみゃー、ほんとに人間か?」

 あ。

「言われてみれば変だな」

 無意識に木に数秒で登るなんて芸当ができた覚えはない。これも、雷の悪戯なのだろうか。

「……何かに使えるかも」

 細い枝を折らないようにバランスを取りながら、考えた。

「お姉さま、大丈夫ですか?」

 志摩子が下から声をかけてくる。

「平気よ」

 隣の枝に飛び移り、ゴロンタを抱えて飛び降りる。

 躊躇いはなかった。

 大丈夫だってことを、体が知っていたから。

 この分だと私は、怪盗にでもなれるんじゃないだろうか――。



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