3
栞と別れたあと、またリリアンに戻る。ゴロンタを捕まえるためだ。
夕方というより夜と言った方が良い時間帯である。部活の生徒も帰ってしまった高等部の敷地には、人通りは殆ど絶えていた。
風が木の葉を揺らし、灯りの影をかき乱す。
「おーい、ゴロンター」
とりあえず呼んではみたものの、これで出てきたら何かの冗談としか――。
「おかえりにゃー」
「うわっ、化け猫!」
後ろから声をかけられて、驚いた。本当に出てきたよ!
「呼んどいてなんなんだにゃ、それは」
「心の準備ができてなかったから」
「恋気分いっぱいなのにゃー」
「それは良いとして、私、怪盗になることにしたんだ。だから手伝ってね?」
「話が見えにゃー」
どっから説明したら良いものか。いいや、大幅に省略しよう。
「私の友達の女の子経由の頼みで、悪いヤツからお金を盗みます。以上」
「というと、つまりその子にロザリオを渡すのかにゃ?」
……飛躍しすぎ、っていうか。
「良く知ってんだね」
「だてにここに住んでにゃーよ」
「でも、私の妹はもういるからねえ」
「あれ、薔薇さまは重婚オッケーじゃなかったのにゃ?」
「何をどうまかり間違ったらそんな知識がつくの」
「だって、聖さまには二人妹がいるみたいにゃ」
「祐巳ちゃんは妹じゃないよ」
「じゃあ何にゃのさ」
「愛でたくなる後輩」
「おめでてーにゃ」
何か間違ってるが、まあいいや。
「本題に戻るよ。付き合ってたら陽が暮れるから」
「もう暮れてるにゃ」
「……全力で投げるよ? こう、グシャッと」
「私が悪かったにゃ」
「よろしい。で、ゴロンタには金を盗む手伝いをしてもらいたい。平たく言うと、アリバイ工作」
「でも私は証言できにゃーよ?」
「当たり前でしょ。ゴロンタにやって欲しいのは、簡単な作業よ」
「刺身にタンポポにゃ?」
どこでそんなワケのわからんことを覚えるんだろう。
「まあ、そのぐらいよ。電話の使い方は分かる?」
「ええっと、普通のなら。でもiphoneは無理だにゃ」
「どこでそんな知識を仕入れてるのよ……ま良いわ。ちょっと試してみて」
差し出された片手、というか前足に携帯を乗せたら、手の平をひっくり返して落っことされた。
「こら」
「持ってたら操作できないにゃ」
「あ、そうか」
地面に落ちた携帯に向かって、ゴロンタが両手を伸ばす。スフィンクスみたいな姿勢だ。
「何すりゃ良いのにゃ?」
「そうねえ……江利子に電話してみて。左上の本みたいのがアドレス帳だから」
「んにゃ」
猫の手でどうするのかと思ったら、にょっきり爪を出して、その先端でボタンをチマチマと押している。表情は、真剣そのもの。
「あっはっはっはっ、何だコレ!?」
「自分でやらしといて何をゆーとるのにゃ。ほら、江利子さまにお電話通じたよ」
猫が、猫が携帯を使いこなしているっ!
「時代もとうとうここまで来たかー、偉い偉い」
「――もしもし? もしもーし」
感動していたら、携帯からちょっと懐かしい声がした。
「ゴロンタ、そのまま話して」
「ごきげんよう、江利子さみゃ」
「え? 猫?」
「聖さまにやらされてんのにゃ」
「……おーよしよし、賢いのね」
「ぷっ」
通じてるのか通じてないのか。微妙に会話が成り立っていた。
「そーなのにゃ、猫使い荒いにゃ」
「にしてもかわゆいねぇ。まさか猫と電話する日が来るとは思わなかったわ」
「聞こえてねーにゃ、そういえば……」
「寂しそうな声出して、どうしたのよ」
「意志の非相互疎通性についての悲しみにゃ」
「お腹が空いたとか?」
「それもあるにゃ」
「あるんかい!」
「あ、そういえば聖の携帯からだったわね」
「ゴロンタ、もらうよ」
「にゃ」
「今の、ゴロンタなの?」
「もちのろん。驚いた?」
「そこそこね」
「用件は以上。ちょっと忙しいから、切るよ」
「忙しい人は、猫で電話かけないわよ」
ちょっと不服そう。
「まあ、明日になれば分かるわよ。じゃあね」
「ふうん……」
江利子に何か期待させてしまったような気がするが、まあ構うまい。
「ゴロンタ。私の家に来てくれる?」
「お持ち帰りにゃ? 襲うのにゃ?」
「私には猫をどーこーする趣味はないからね」
「女の子なら?」
「さあ? ついてきて」
*
「中は大丈夫そう?」
「にゃ。誰もいにゃーよ」
「よし、行こう」
駅から少し裏に入ったところに、高い塀で囲まれた工事現場がある。来年には高層マンションが現れるらしいが、まだ建物自体は伸びていく途中で、青いシートに覆われている。そこでちょっと自分の物理的な限界を試してみよう、ってわけだ。
通りの人目が絶える瞬間を待ってから柵を飛び越える、という非常に原始的な方法で中に入り込む。
「……高いなあ」
暗闇の中を、黄色いタワークレーンと上層階につけられた紅いランプが照らしている。
建物を包むシートに四角く開けられた入り口。そこから少し中に入って、外壁を見上げる。首が痛くなりそうな高さだ。下の方の階は既に色まで塗られているが、上の方はまだ鉄骨が組まれているだけだ。柵の外から、黄色いタワークレーンが顔を覗かせている。
あのてっぺんから飛び降りたら、流石に死ぬだろうな。
「で、何するのにゃ?」
「ジャングルジム。あと参考までに重量挙げ」
「自らの怪力女っぷりを確認するのにゃ?」
「化け猫に言われたくないね」
シートの外側に出て、建物に沿って歩いていくと、半周ぐらいしたところで、建材が積まれているのを見つけた。
「これにゃんか持ち上がるんじゃにゃーか?」
ゴロンタが、細長い鋼材の山に乗っかって言った。断面は「I」の字みたいになってるから、持ち上げるとしたら上の横棒を持ち上げるような感じか。長さも目測で十メートルぐらいはある。
「無理でしょ、これ」
「やってみにゃーわからんにゃ」
「どれ」
Iの上の出っ張りを掴んで、上にぐいん、と――。
「上がったよ……」
ちょっと辛いけど、どうにか自分の側を持ち上げることはできた。
「にゃ、マジで持ち上げるとは思わにゃーった」
「これ、何キロぐらいあるんだ?」
「あ、600キロって書いてあるにゃ」
「嘘つけ」
「いや、ほんとにゃ」
鋼材を地面に置いてからゴロンタのところに行くと、確かにプレートには「10m 615kg」の文字があった。
「600キロかあ。祐巳ちゃん何人抱ける?」
「そーいうことばっかゆーから姉妹と間違われるのにゃ」
「じゃあ、志摩子何人……やめよう」
志摩子の体重なんて計算しても仕方ない気がする。
そういえば魔法少女になっちゃったらしいけど、無事過ごしてるだろうか。
「賢明にゃ」
まあ、志摩子のことだ。何かあったら、回りの人がフォローしてくれるだろう。
「鬼に金棒、聖さまに鉄パイプにゃよ」
言われてみれば、良いところに程良い長さの鉄パイプ。
「って、泥棒じゃん」
廃材とかならまだしも、整然と積み上げられてるから、これから使うに違いない。持ってくわけにはいくまい。
「怪盗じゃにゃーの?」
「怪盗ってのは、こんな微妙なもんは盗まないの」
「不法侵入は良いの?」
「良いの。それに、鉄パイプなんか持ってったらかえって危ないでしょ?」
「確かに、足を滑らせたら大変だにゃー」
「それはやらないわよ、ゴロンタじゃあるまいし」
「にゃ、私だってやらにゃーよ」
「ともかく、落っことした時拾われたらマズいでしょ?」
後ろから鉄パイプで殴られたら大変だ。筋力が増えようと頭蓋骨は頭蓋骨だろうし。
そういう状況に陥らないためには、囲まれたり背後を取られたりしなければよい。即ち、適切な回避のための身軽さが、最も必要な要素であろう。
「というわけで、丸腰」
「モノローグは説明してくれにゃ伝わらんにゃ」
「良いでしょ、どーだって」
「にゃんにゃかにゃあ」
なんだかなあ、と言いたいらしい。
「あとは……高所作業?」
さっきとは逆の入り口から建物に入ると、ちょうど目の前に階段があった。
「エレベーターとかにゃーの?」
「貴様それでも猫か!」
猫が上下移動を面倒がってどうする。
そもそも、あっても電源が入らなそうだし。
「うにゃー、わたしゃはここで待つ」
「そーかい」
ま、いいや。
気だるそうに体を丸めたゴロンタを後目に、壁際につけられた作業用の階段を駆け上る。
一段飛ばしで上って上って上って折り返し、また上って上って上って折り返す。金属の乾いた音が、茶色い壁と青い柵の間で増幅されて、変拍子を刻んでいく感覚。
最初は茶色かった壁は、色を塗られていない白になり、灰色のコンクリートになり、そしてとうとう消え失せて柱だけになった。そしていつしか、青い柵も途絶える。かわりに現れるのは、どこまでも続く夜空。
階段が途絶える直前まで突っ走って、足を止めた。
視界は果てしなく広がって、遠くの街まで俯瞰できる。高すぎてスケール感が掴めない。箱庭めいた街の明かりが、星のように揺らめいている。そもそも方角がよく分からない以上、景色の楽しみようもない。
見上げると、地上から見るより少しだけ賑やかに、地上を見るよりずっと寂しく、本物の星が瞬いていた。走って熱くなった体を、何者にも邪魔されず吹き抜ける風が冷ましてくれる。
……さて、あんまりのんびりしている場合ではない。
階段から、水平なコンクリートのはりの上へと踏み出す。足元は普通ならギリギリ歩ける太さ、という感じだ。目測で五〇センチぐらいか。下は数階分に渡って、床がまだ作られていない。その床もコンクリートだから、落ちたら凄く痛いだろう。頭から行ったら確実に死ぬ。
だが、不思議と落ちる気は全然しなかった。そりゃあ、突然地震とかが来たらヤバいかもしれないけど、普通に歩いていれば何のことはないレベルの怖さだ。
雷に打たれて壊れたのは、むしろ危機感なのかもしれない。
途中の柱を避けながら反対側の端まで歩くのに、大して時間はかからなかった。
再び眼下を見下ろすと、線路とおぼしき暗いラインが横切っている。そうか、駅はこっち側だったか。覚えておこう。
改めてあたりを見渡して、明日どうすれば良いか考える。
階段から出てきて、それからこっち側で……うん、まあどうにかなるだろう。
地上には、相変わらず有象無象の明かりが瞬いている。そして、この有象無象の人々が、明日になれば今まで名も知らなかった、怪盗の存在に驚いたり喜んだり不思議に思ったりしてくれるわけだ。
凄く、楽しそうじゃないか――!