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観用姉妹

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 突然降り出した真冬のスコールは、予想できなかった私をあざ笑うように、バラバラと豪快な音を立てながら、コンクリートに降り注ぐ。

 傘も合羽も持ってきちゃいない。配るべき封筒はラスト一つしかないのが、救いと言えば救いなのだけど、問題は、そのラスト一つなのである。 (五七四番地って、いつの表記だろ……)

 見覚えのない番地と宛先名。そのくせ、郵便番号と地名まではバッチリ私の担当範囲を指し示してくれちゃっている。歩いているうちに見つかるかと思って後回しにしてはみたものの、他の手紙はすでに配り終えてしまった。

 雨宿りをしようにも、降りが酷くなった最初の十秒ぐらいでタイミングを完全に逃してしまった。すでに服はびしょ濡れだ。まあ、仕事用には基本的にどうでも良い服を着ているから構わないのだけれど。

 こんな雨の日に迷うなんて。本当についてない。見知らぬお店の庇の下、用途不明のさび付いた出っ張りに寄りかかる。

 仕方ない。局にいる係長に電話して聞いてみるか。

「はいもしもし。どうしたの?」

「あの、係長。今二区の配達をしてるんですが、五七四番地ってどこだか分かりますか?」

「なんてところ?」

「店の名前は、えーと……」

 書いてある文字をそのまま告げると、「うーむ」と低い声で唸った。

「聞いたことないな。ちょっと古株の人に確認してきたら、またかけ直すから」

「よろしくお願いします」

 電話を切って、透明な弾丸を見つめた。

 すぐに止んでくれればいいけど、空はどこまでも灰色に満ちている。無理だろう。

 服に染みこんだ水分が、体から熱を奪い去っていく。寒いなあ……冬にスコールが降ることなんて、故郷じゃ絶対になかった。

「お嬢さん、その名前の店をお探しですか」

 唐突に、後ろから話しかけられた。

「わ!? ……え、ええ。そうですが」

 思わず叫んでしまった。店の扉から半分体を出して、巻き毛のお兄さんが立っている。何か知ってるのかな?

「それならようございました。ここがそのお店です」

「な……本当ですか?」

 新手の詐欺かなんかじゃないか。

 都会に出たときは気をつけろと、昔誰かが言っていた。

「ええ。郵便受けをご覧になれば分かるかと」

「郵便受け……?」

 郵便受けといわれても、扉の周りにそれらしきものは見当たらない。

「後ろをご覧になると良いかと」

 後ろを見る。壁にしか見えない。上を見てもそうだし、下を見てもさび付いた出っ張りがあるだけで……あ。

 さび付いた出っ張りをよく見れば、投入口の穴が薄く穿ってあったのだった。

 お兄さんがにっこり笑った。

「さあ、中へお入りください」

 まさか、まさにあて先の目の前に座ってるなんて思わなかった。

 暖かい手が、優しく私を建物に引き込んだ。抗う気も起きず、自然に部屋へと入っていた。

 店の中は、見たこともないぐらい豪華で、中華風味な装飾で彩られていた。椅子と言い机と言い、恐らく結構な骨董品だ。

 天井からつり下がった行灯が、お香の立ちこめる部屋を優しく照らす。さっきまでビルの中を彷徨っていたとは思えない。まるで異世界だ。

 これもやっぱり豪華に見える硝子の棚には、なぜか上品な菓子のパッケージと、瓶に入った牛乳が置かれていた。……いや、新手の化粧水とかなのかな? 私には牛乳にしか見えないが。

 貴族向けの店なんだろうな。私には一生縁があるまい。

「こちらでお待ちください。寒かったでしょう、これをどうぞ」

「あ、えと、助かります! ありがとうございます」

 見かねてタオルを渡してくれた。恩は受け取ろう。

 髪の毛と手を重点的に拭く。脚はもう仕方がない。

「ふふ、良かった。お茶を入れてまいりますね」

 ……にしても、なぜこのお兄さんは、郵便配達なんぞにここまで親切なんだろうか。

 あ。もしかして、お客さんと勘違いされてるのか?

「あの、すみません」

 タオルを取りにいく彼の背中を呼び止めた。

「はい。なんでしょうか、お客様?」

 ほら。道理で。

「あの、私別に何というか……お客様ではなくて、単なる郵便配達なのですが」

 お兄さんが驚いた目で、私の胸元を見た。

「おや、本当だ。バッジを着けていらっしゃる」

「ええ。こちらの封筒になります」

 濡れた手で持って渡したら、フチが少し濡れてしまったが、彼は気にする様子もない。

「おや、これは久しぶりな方からですね。こんな雨の中、お仕事お疲れ様です」

「……すみません、勘違いさせてしまって」

「いえ、構いませんよ。せっかくですから、お茶もどうぞ」

 凄く高いお茶が現れそうだ。せっかくだからもらっていきたい気もするが、残念なことに既に局に戻るべき時間なのだった。

「えと、お気持ちはとっても嬉しいのですが、勤務中でして」

「それは失礼しました。しかし、雨は当分止みそうもありませんね。傘、お貸ししましょうか?」

「わ、ありがとうございます」

 それぐらいの恩なら、罪悪感なく受け取れる。

 お兄さんは扉の近くの傘立てから、緑と黒の市松模様をつけた大きな傘を取って私に手渡した。

「男物なので少々大きいのですが、お気に召しますでしょうか?」

「ええ、傘なら何でも」

 思わず本音が。

「この雨でございますからねえ」

「後で返しにきますね」

「ええ、お暇な時にどうぞ」

「では、失礼します」

 扉を開けると、大粒の雨が地面に打ち付けられる悲鳴が、ビルの間にこだましていた。

「お気をつけて」

 お兄さんが笑顔で私を送り出した。

 なぜだろう。

 返しに来るのが、少し楽しみになっていた。

 濡れた服はさっきの数分でいくらか暖まっていた――冷え切らないうちに局に戻ろう。

 そういえば、この店は結局何のお店だったんだろう?

 分からなかったなあ。

 後で行ったら、ちゃんと見てみよう。

 ポケットの中の電話が鳴った――あ、局からか。忘れていた。

「あ、もしもし? 僕だけど」

「はい」

 名乗れてない気がするが、私も口が回る方じゃないので突っ込まないことにしよう。

「局長まで聞いてみたんだけどね、誰も知らなかった。名前、さっき教えてくれたので合ってるよね?」

「えーと……今さっき電話した後に、見つかりましたが」

「え、マジで」

「ええ。あの、そこの店主の人が教えてくれましたよ」

「うわー、ラッキーだったねえ」

「ですねえ」

「それじゃ、もう戻ってこれるんだね?」

「はい」

「分かった。そいじゃ」

 電話を切って、また私は早歩きに戻るのだった。

 熱を失わないように。

 

                    *

 

「戻りました」

 局の二区担当のスペースには、いつも通りに係長と先輩がいた。

「お帰りー……って、びっしょりじゃん! タオルか何か持ってこようか?」

 係長は、特に取り柄があるわけでもない私にやたらと優しくしてくれる。良いお兄さんである。

「いえ。さっさと帰って着替えますので、お気遣いなく」

「ほんとに良いの? 寒くないかな?」

「ええ。あの、着替えないことには始まりませんので」

 服以外はさっきも拭いたから、そんなに酷く濡れていないのだ、もはや。

「……んー、分かった。それじゃ、出勤簿。三十分残業付けといたからね」

「え、あの……悪いですよお」

 計算が三十分刻みとはいえ、数分しかオーバーしてないし、そもそも迷ったのは私なのだ。

「いや……付けないと組合がうるさくて」

 係長がバツが悪そうに言った。確かに、色々あるんだろう。

「それなら、受け取らせてもらいます」

「貴方、もう少し有り難そうにしたら?」

 張りのある聞き慣れた声。

「先輩?」

 私よりもう少し前からいる先輩は、ちょっとキツい感じのお姉さん。薄く茶色がかったセミロングは、肩口の方だけカールしてごわごわと広がっている。大きなつり目は、決して笑うことはない。おまけに背も私より幾分高くて、小柄な係長より少し高いぐらい。

 格好いいといえば格好いいし、怖いと言えば怖い。

「自分で迷っておいて遅れた上に残業代持ってくんでしょう? おまけに濡れてるのだって、傘忘れたからだし。……ちょっと迷惑なの。自覚してちょうだい」

 それに加えて、オブラートなんて概念のない物言い。

「すみません」

 いつも彼女の理屈は筋が通っているけれど、納得できるかどうかとは別だ。ついでにちょっとしょんぼりする。

「君ねえ……そこまで言わなくて良いでしょうよ」

 係長が、私が心の片隅で思ったことを言ってくれた。

「いいえ。これぐらいで良いんです、最初は」

「最初って、もう何ヶ月経ってると思ってるんだ、君は」

「係長は甘すぎます」

「そう? 僕、甘いかなあ?」

「……何とも」

 私に振られても、首を傾げる他はない。頷いて厳しくなられても困るし、かといって首を横に振る理由はない。

「答えたら?」

「そう言われましても……ええと」

「あー、とにかくだ。君は仕事まだ残ってるんだよね? ちゃっちゃかやっちゃえ、残業代もつくから』

「はい。分かりました、係長」

 なんだかんだで彼女は、最後には係長の言うことを聞くのだ。彼女なりに何か信念とかあるのかも。

「君の方はもう上がって良いね。お疲れ様」

 先輩が自分の仕事に戻ったのを見届けてから、係長が言った。

「はい。……えっと、今日は、ありがとうございました」

「ん? 僕、何かしたっけ?」

 さっき庇ってくれたとか、残業代つけてくれたとか、心配してくれたとか、いろいろあるけれど。

「ええ、ちょっと嬉しかったです。では、失礼します」

 単純な感謝ほど、言葉にするのは気恥ずかしいのだった。



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