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一旦アパートに戻って、持ち合わせの中じゃ一番マシに見える服に着替えてから、再びあのお店に向かう。
アパートを出るときには、幸いすっかり雨は止み、雲も星もない透明な夜空が街を覆っていた。
全く繋がりの分からない商品の群れに、格好よくて丁寧だけど得体の知れないお兄さん。あれはいったい何の店なんだ。
考えてみれば怪しすぎる。だいたい、配達先リストに載ってない時点で謎ではあるし、ずっと昔の住所で手紙を送ってくる人だって今時滅多にいない。
……危ない店だったらどうしようか?
でも、仮にそんな店なら普通傘なんか貸さないから、やっぱり大丈夫だろう。
いろんな疑問がない交ぜになって、私の期待はより煽られ、自然と歩みも早くなる。夕暮れ時を過ぎた路地裏は、単なるビルの合間だけど、不思議な暖かさに満ちていた。
「こんばんは」
「ようこそいらっしゃいませ。……そんなに急いでくるとは思いませんでした。今、お茶をご用意いたしましょう」
言われてみて、自分がいつの間にか息を切らしていたことに気づいた。
「いえ、なんだか気になってしまったもので……傘、ここで良いですか?」
「ええ、お願いします。そちらの椅子でお待ちください」
もとあった傘立てに戻しておく。傘立てにすら得体の知れない模様がついている――貴族向けの店っぽいなあ。
来ちゃって良かったんだろうか、私みたいな人が。……場違いなんだろうなあ。
でも、一応来てしまったからには、どんなところかぐらい確かめてから帰りたい。なんせこんな機会、そうそうあるものではないから。
「お待たせいたしました」
「うわぁ……」
素人目にもお金かかってそうなティーセット。いや、実は素人目にしか分からないのかもしれない。
「あ。紅茶はお嫌いでしたか?」
「いえ、その……あまりこういう場に慣れていないもので、何というか、面食らいまして」
「それなら良うございました。そんなに身構えて頂く必要はございませんよ」
そう言われても、場違いな感じは拭えない。私の前に置かれた紅茶に、砂糖とミルクを少しずつ加えてかき混ぜる。落ち着かない。
とりあえず、香り立つ紅茶を一口飲んでみる。
「つ」
……熱くて味なんか分かりゃしなかった。初歩的なミスである。
「大丈夫ですか?」
心配されてしまった。恥ずかしい。
「え、ええ。……あの、ここって何のお店なのでしょうか?」
いたたまれなくなってきたので、単刀直入に聞くことにした。お兄さんは私の質問に特に驚いた様子もない。慣れてるんだろう。
「お嬢さんは、観用少女というものをご存じですか?」
「観用少女――え、アレって本当にあったんですか!?」
ちょっと失礼かもしれないけど、本音が飛び出していた。
だって、女の子の生き人形が貴族に愛好されている、なんて言われたって、見たことないんだから。何かのたとえ話か都市伝説ぐらいにしか思っていなかったが――実在するのか。
「実際にご覧になられれば、分かるかと」
「あ、よろしいんですか?」
買う気もないのに見ることに一抹の罪悪感を覚えたが、ここまで来たら場違いだろうと冷やかしだろうと構わない。好奇心が諸々を凌駕していた。
「ええ。この内側をご覧ください」
彼が指さした先には、肩の高さぐらいから足下までカーテンが降りていた。カーテンの上と左右は普通に壁だ。
パッと見では奥に続いているように見えたが、この中に観用少女があるのか。
カーテンを開ける私の指が、少しだけ震えていた。何が出てくるのかという期待と不安は、年の瀬に仕分け場に積まれた年賀状のごとき勢いで増えてゆき。
カーテンの中には、美しい少女がいた。
その時、不安は元日みたいに、消え去った。
目の覚めるような緑色のドレスに包まれた、今にも目を覚まして歩き出しそうな少女。だけど、彼女は静かに寝息を立てている。
……人形でも、息をするんだ。
「眠ってますね」
「ええ。彼女たちは基本的に、気に入る人間が現れるまで眠ったままなのでございます」
「ってことは、私は気に入られなかったんですね」
「そのようでございますねえ」
うーん。そりゃあ、こんなきれーなお人形のお嬢さんに好かれるとは到底思えないけれど、ちょっとだけ寂しかった。
「即座に少女に気に入られるお客様は、滅多におられません。もう少し見てみてはいかがでしょうか?」
「えと、そうしますね」
見るだけなら良いよね? 目を開けたらラッキーだ。
「では、こちらへ。少々狭いので、お気をつけて」
お兄さんに連れられて、別のカーテンで仕切られた店の奥へと進む。
その中は、また不思議な模様の布などで細かく仕切られていた。仕切りが壁のように並んでいる間に、迷路のごとく通路が確保されている。本当は、こっちは倉庫かなんかじゃなかろうか。
たぶん、ちゃんとしたお客さんが来るときには、ここから人形を出して用意しておくのだろう。
「このそれぞれに少女がおります」
「……適当に見てみて良いんですか?」
「ええ、どうぞ」
「でしたら」
次のカーテンを開け、その内側を覗いてみる。
今度の少女は、波打つ明るいブロンドの髪に、真冬の突き抜ける青空のような薄いブルーのドレス。色使いは違うけれど、顔つきや雰囲気自体はさっきの少女とあまり変わらないように見える。
この少女もまた、眠りについていた。
私の肩の高さぐらいにカーテンレールが通っているかために、若干腰を曲げて、仕切りの内側に上半身だけを入れてのぞき込むような形になる。
仕切りの内側に足を踏み入れれば真っ直ぐ立てるんだけれど、買うわけでもないので、そこまでする勇気は出なかった。
しかし上半身だけが入っている体勢でも、自然と私と少女の瞳の距離も近くなる。
薄暗い中でも艶を湛えた髪といい、白くきめ細やかな肌といい、人間離れしているのに、いわゆる人形の無機質さともまた違う――そんな不思議な感覚で、少女はできていた。
「目は、さましてくれないんですね」
「質の良い少女ほど、わがままになるのでございます」
なるほど。お姫様化する、ってわけか。
「もう少し見てみても良いですか?」
「ええ、どうぞ」
次の少女も、その次の少女も、一様に美しい装いとともに、目を閉じて眠っていた。
動いているのは私たちだけだった。
少女達は、決して目覚める気配がない――時を封じ込められたみたいに。
「……眠り姫なんですね、ほんとに」
呟いていた。本当に彼女たちは目覚める時が来るのだろうか。永遠に眠ったまま、時の果てまでたどり着くんじゃないか。
そう思いながら、また次のカーテンを開けた時、私は全く違う景色を見た。
「お客様、そこは……」
中には二人の少女が立っている。奥にいる少女は、今まで見てきた少女と同じように眠っていた。だが、手前の少女は彼女を守るように、私を睨み付けながら小さなナイフを構えている。
「あ、起きて、る……?」
「その少女は、なぜか目覚めてしまったのです」
その少女だけが異質に見えたのは、目を開けているから、という理由だけじゃない。
その瞳に宿っているのは――明らかな敵意。
「――格好いい」
黒いドレスを身にまとい、銀のナイフを手にしてる。
邪魔にならないように斜めに流された前髪も、また同じ闇の色に染められている。瞳と同じ色合いの髪飾りは、宵闇のように濃い蒼紫。それだけが彼女の持つ色だ。
瞳の揺らぎは、怯えなのか怒りなのか。
そんなまなざしの後ろで、もう一対の目が開いた。
「……うそ」
「どうなさいましたか?」
「後ろの子も……目覚めた」
もう一人。黒い少女に守られた子が、私のことを見て微笑んだのだ。
天使のような白いドレスに身を包んだ彼女の瞳は、人を引き込む魔法のような鳩血色。その笑顔は、抗うことを許さない。
触れたいという欲求は、私がそれと気づく前に産まれて、実行へと移される。吸い寄せられるように、私はふらふらと内側に足を踏み入れた。
一歩。また一歩。
それは私の過ちだった。
だって、黒の少女は、彼女を守ろうとして身構えていただのだから――。
「きゃぁぁぁっっ!?」
膝下に鋭い痛みが走り、私は反射的に飛び退いた。
「お客様?」
カーテンレールに頭をぶつけて、這いずるように無様な格好で飛び出した。後ろから追いかけてきたら、どうしよう。人形に殺されるなんて洒落にならない。
手前にいた子が、襲いかかってきたのだ。
「た、たたっ……何なのよ、これ」
だけど幸い、それ以上のことは起きなかった。
床にぺたんと座り込み、カーテンの内側を振り返る。白い少女が黒い少女の腕を後ろから掴んで、私にそれ以上何かするのを止めていた。
「お怪我はございませんか?」
「少し、膝を……」
「おや。これは痛そうだ、少々お待ちくださいね」
お兄さんが怪訝な顔をしながら、倉庫の奥へとスタスタ歩いて行く。
置いていかれた。大した傷ではないし、今度同じことをされたらたぶん逃げられるけど、怖いものは怖い。
また少女達のいる方を見る。黒い少女は警戒は解いて、白い少女と向き合っていた。その景色を見ていたら、不思議と安心できて、さっきのはちょっとした間違いだったんじゃないかという気がしてきた。
騙されているのかもしれないけど。
黒い子がナイフを取り落とした。
白い子が黒い子の手を引いて、こっちに歩いてくる。床に座ったままの私の目の前まで来て、立ち止まる。
「……どうしたの?」
さっきはただ美しかった白い娘の紅い瞳が、今は不安そうに私を見ている。彼女は、黒い娘の頭を強引に下げさせる。黒い子は少し不平そうだったが、それでも抗うことはしない。
「ええっと、謝ってるの?」
観用少女が謝ったりするとも思えないけど。
白い少女は頷いてくれた。
「……そっか。二度とこんなこと、しない?」
紅い瞳のまぶたを細め、黒い子を短く睨み付ける。それまでいやいや従っていた黒い子が、バネ仕掛けみたいに頷いた。
「分かった。良い子だね」
故郷で小さな子達にしていたように、頭をなでてやろうとしたら、振り払われた。
――やっぱ、嫌われてる?
「お待たせいたしました」
お兄さんが戻ってきて、現実に引き戻される。消毒液とガーゼを持っている姿は、思いの外似合っていた。
「いえ。……ただ、人形がナイフ持ってるなら、先に言って欲しかったんですが」
「え」
彼はカーテンの中を覗いて、しばし頭を抱える。
「どこからこんな物を持ってきたのやら……」
お兄さんも知らなかったらしい。
慌てることこそしないものの、いまいち納得いかなそうな顔をして、ナイフを拾いあげた。
「お客様には、本当に申し訳ないことをいたしました。少女の代わりに、お詫び申し上げます」
丁重に頭を下げられた。
ひえええ。私、客でもないのに。
「いや、あの、すみません。大丈夫です、私の方こそ、なんか少女に近づき過ぎちゃったみたいで……お客でもないし、いやがられてたみたいなのに……えっと、あの、それに、貴方が謝ってくださる前に、その子達が今、謝ってくれたんですよ」
なんだか、私の方が悪いことをしたみたいな気分になってきて、わけのわからないことを口走っていた。生来の口べたが出て、フォローしようとして泥沼。
その子達が謝ってくれた、って考えてみたら人形が謝ったりするのなんて――って、あれ。
「私、人形と、会話してました……?」
意思の疎通ができていた?
観用少女って、そんなに凄いものなのか?
「お客様。とりあえず、傷の手当てをいたしますので、お話するのは、一旦落ち着いてからということでいかがでしょうか?」
「あ……すみません。そうしましょう」
お兄さんが営業スマイルで、私をなだめた。私は、なんでこんなとこでまで人に迷惑かけてるんだろう。
落ち込みかけていると、白い少女がほんの僅かに首を傾げて、歌いだすようにふわっ、と口元を綻ばせた。
それだけのことで、救われた気分になる。
やっぱり――騙されているのかもしれない。