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五月病、だろうか。
それにしては、少々遅すぎるけれど。
カフェテリアから外を見れば、空は今日も薄めたメロン牛乳のように気だるい色合い。青空なんて、もう七日ぐらい見ていない。
アバウトな味の紙コップのコーヒーを飲み干して、蓉子は小さくため息をついた。
大学に入って二ヶ月。今ひとつ何か、張り合いがないような感じ。
具体的に何がつらいとかそういうのは全くないのだけれど――今まで、こんな類の憂鬱にはお目にかかったことがなかった。
一気に環境が変わったというなら、リリアンに入った時だってそうだったし。もっとも、あの時は五月病になってる余裕なんかなかったか。
たぶん、自由度が上がりすぎたのと中途半端に余裕があるのがいけないんだろう。
もう一度窓の外を見る。木立の合間からしとしとと降り続く雨。
晴れたらどこかに行ってみようか。
……どこにだろう。
「あれ、水野さんも四限取ってないんだー」
中途半端な時間帯。静かなカフェテリアで、彼女の声はよく響いた。すぐ隣に立ってたならば、なおさら。
「……川藤さん。そうね」
皆勤仲間の川藤さんである。
隣に来るまで全く気づかなかった。
時々空回りすることもあるけれど、元気なのはたぶん前から変わってないのだろう。
「今、ちょっと嫌そうな顔しなかった?」
「嫌ね、そんなことないわ」
少しばかり嘘だった。
ただ、川藤さんに罪はない。
「一人にしといて欲しい、って感じが少ししたからさ」
「それでも話しかけてくるの?」
「え、あー……それもそうですよね」
本気で申し訳なさそうな顔をされてしまった。今の言い方じゃ、無理もないか。思ってるよりだいぶ言葉の織り目に棘が挟まってしまった。
「冗談よ」
笑顔を作ってやり過ごす。
自分で認識してる以上に、ストレスとか溜まってるのかもしれない。
「もう、水野さん美人だからそういうこと言うと冗談に聞こえないのよう」
「ありがとう」
賛辞は素直に受け取っておこう。
「……変わってる」
「そうかしら?」
「大抵の子ってさ、そこで否定しちゃうでしょ?」
「ああ、それは確かにあるわね」
「それから謙遜合戦とか、少し不毛よねえ」
苦笑いを浮かべてる川藤さん。たぶん、普段は疑問を感じつつもそんな流れに乗ってるんだろうな。
私だってもう少し人数がいたらそうだけど。
「結構、人気あった? 高校の頃とか」
勢いで動いてるように見えても、洞察力はあるのかもしれない。
「それなりに、ね」
否定しても良かったが、それこそ謙遜になってしまう。もっとも、私単体での人気だったかと聞かれると、違うんじゃないかなとは思う。
「おお、言い切ってくれるね。部活とかしてたの?」
「いいえ」
「えっと……じゃあ、どこから」
「生徒会にいたからね」
「はあ、生徒会、かぁ。そういえばこの間言ってたよね。確かに水野さんなら適役ね」
多少の心持ちぐらいでは、そういう風に見られてしまうのはもうどうにもならないらしい。
「それほどでもないわ。会長ってわけではなかったし」
もっとも、三人で会長を選べと言われたらたぶん私にされてしまうのだろうけど。聖も江利子もあの通りだ。
私たちは、色々あったけれど三薔薇さまの名に負けないぐらいの働きはしていたと思う。無論、それは薔薇の館にいた妹たちであるとか、たくさんの生徒達に支えられていたからこそできたのだけど。
「良いなぁ、そういうの」
「そうね。確かに、楽しかったわ」
あの薔薇の館は、確かに私の中にある。
卒業して二ヶ月。今でも名残惜しいような感じがないと言えば、嘘になる。
やりたいことは全部やって心残りのないように、そうしてきたはずだったのに。でなけりゃ、ホットミルクいちご牛乳割りを飲まされた祐巳ちゃんだって浮かばれないし。
「女の子に告白されたりするの?」
「そうね……私はされてないけれど」
お姉さまにロザリオを渡されたのはある意味告白なのかもしれないけど、ノーカウント。ここで姉妹制度を説明でもしたら、きっと目をキラキラさせて応じてくれるだろうけど、それはまたの機会に取っておこう。
「『は』ってことは、誰かされた話を知ってるとか?」
「内緒」
聖は告白されたうちに入るのだろうか。まあ、告白されててもされてなくても、誰も割って入れないような仲ではあったけど。
「ふうん。聞きたいなー」
「だーめ」
「……なるほど」
私の顔をじっと見た後、小動物のように小刻みに頷いて納得している。
「どうしたの?」
「そりゃ、下級生に大人気なわけだ」
彼女の中で何らかの論理の飛躍が起きたのか、それとも私が何かしたのか。
「どのあたりが?」
「気づかないところだね。これが天然モノのお姉様の力、かぁ」
ある程度自覚してはいるけど、姉妹制度を知らないはずの川藤さんにまでお姉様呼ばわりされてしまうとは思わなかった。
『紅薔薇さま』に慣れすぎたのだろうか。たった一年だったのに。それより天然モノって、一体なんだ。
「私は海産物の類なの?」
「いや、もう少し素敵なものに例えてみましょうよ。真珠とか」
「綺麗なだけで食べられないじゃない。それに、真珠だって海で取れるって意味じゃ海産物よ?」
「違いないね、ふふっ、あははははっ」
川藤さんがどこのツボにはまったのか、雨の音をかき消して笑い続ける。
その様子を見ているうちに、さっきまで付き合っていた憂鬱がどこかに沈んでいってしまったことに気づいた。
*
祥子のお祖母さまが亡くなられた。
清子叔母様に呼ばれて来てみれば、祥子は予想以上に気落ちしていた――というより、崩れ落ちていた。
私が祥子の眠る部屋に入ったとき、祥子はベッドに横たわっていた。眠っているのかとも思ったけれど、近づいてみれば目は薄く開かれている。
「祥子」
返事どころか、なんの反応もない。
顔を真正面から見据える。私の姿を虚ろな瞳に映しながら、反射的に目をしばたたかせる。
「祥子。起きているのでしょう?」
「お姉……さま?」
生気の感じられない声。思っていたより、よっぽど重症そうだ。
「そうよ」
「どうして、ここに」
驚いているというよりは、単に定型として発されているような言葉。
「貴方が悲しんでいると聞いたから」
ぎこちない動きで、祥子は大儀そうに起き上がる。それまでずっと、動くことなど忘れていたように。
「ありがとうございます、お姉さま」
少しずつ、瞳が潤んで光を取り戻す。私がいることで、泣けるようになってくれるなら御の字だ。
こんな風に悲しみをばらまくことさえできず塞いでいるよりは、余程良い。
「辛かったのね」
そっと祥子の上体を抱き寄せる。
「はい。でも、それより……」
抱きしめた肩に、祥子の涙が伝い落ちてくる。冷たい肌よりは、ずっと暖かさが残っていた。
「私、祐巳に嫌われてしまいました」
「どうして? 祐巳ちゃんに何か酷いことでもしたの?」
そうでもしなければ、あの祐巳ちゃんに嫌われるのは難しそうだ。
「ええ。祐巳と、約束をしていたんです」
「そう」
「何度も、反故にしてしまったから……たぶん、もう……」
消え入りそうな声に嗚咽が混じる。約束が何か、なんてことだって聞いてみたくはなるけれど、全て落ち着いてからだって変わりはしない。
「そう……そのことがあってから、祐巳ちゃんと話してみたの?」
「いいえ……うっく、そんな、こと……」
恐くてできない、なんて言いはしないけれど、継がない言葉と震える肩に触れていれば、嫌でも伝わってきてしまう。そんな弱った祥子の姿を見ているのは、全くもって忍びなかった。
祐巳ちゃんが祥子を嫌いになったなんて確証がない、というのは大きな救いだ。
「分かったわ。祐巳ちゃんをできるだけ早く連れてきてあげる」
今の祥子に必要なのは、私ではない。祐巳ちゃんだけなんだ。
「お姉さま……それは」
「恐いのね?」
祥子は静かにこくりと頷いた。
「話してみれば――きっと、道は開けるわ」
大丈夫、って言ってあげられないのがもどかしい。
祐巳ちゃんはちょっとやそっとじゃ祥子を嫌いにならないだろうとは思うけれど、確実じゃない。
私一人にできることなんて、たかが知れていた。
案の定、祐巳ちゃんは祥子のためにすぐに動いてくれたし、祥子もすぐに立ち直った。
二人は私がいなくてももう大丈夫なんだと確認できた。
ほんの少しだけ寂しいけれど、この先もきっと上手くいく。そう思えたのは素直に良いことだった。