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江利子からメールが来たのは昨日の夕方。三ヶ月間連絡も特に取っていなかったから何かと思えば、文面は至ってシンプル。
『明日の午後一時半に上野集合。どう?』
上野。東京都台東区上野。まさか忍者の里の伊賀上野でもあるまい。
動物園にでも連れて行こうっていうのかしら。しかしそれなら山辺さんと二人で行ったら良さそうなものだけれど。
メールの送信先を見る。私と聖の二人だ。
――三人集まろうという意図は伝わった。なんで上野なのかっていう部分は、聞いてみようかと思ったけれど、明日会ったらきっと分かるだろう。久しぶりだし、江利子の気まぐれを目一杯楽しんでみようじゃないか。
次の朝、洋服ダンスを引き開けて気がつく。
大学に入った時イメージを変えようとしたこともあって、最近着回してる服はどことなく聖を意識してしまっている。
もう少し有り体に言うならば、チャラい男の子みたいになってる。
じゃあその前に着ていた服で行くか……?
それも何だか妙な感じだ。今更、っていうよりは、意識しすぎっていう意味で。かといって何を意識してるのか、自分でもよく分からないけれど。
なんで久しぶりに三人集まるってだけで、こんなに舞い上がっちゃってるんだか。
そう思ったら、気恥ずかしさとともに頬が熱くなってくる。妙なものだ――大学入ってからの格好で出かけよう。今後とも会うだろうし。
上野駅の公園側の出口。
切れ切れに雲が浮かんだ空は、久しぶりに青さを取り戻している。行き交う人たちの表情も、皆どことなく楽しそうだ。
私はと言えば、段々待つのに飽き始めていた。考えてみれば、聖と江利子相手に十五分前に着いてしまったのが失敗なのだ。
流石にそろそろ来てくれて良い頃だとは思うのだけれど。
吊り下げられた緑の時計の針が僅かに動いて、長針が真下を向いた頃。
見慣れたおでこが人波の中から現れた。
「やー、お待たせ」
「久しぶりね。一体どんな気まぐれを起こしたの?」
「たまには集まってみるのも良いかと思ったのよ。でも、さすがに少し急すぎたわ」
それはそうだ。私にしたって、今日予定が空いていたのはなかなかの幸運なのである。
「聖は遅刻、かしら?」
「ああ、聖は来られないって。何でもお友達と約束があったとかで」
「えっ……」
そうか。誘ったメールが届いてる、ってことしか確認していないんだった。無論、そういうこともあるわけなんだけど、何だか寂しい。
今朝悩んだのは無駄だった、ってことになる。
「そう、寂しいわね」
努めて平静を装うけれど、それがかえって仇になるらしく。
「ごめんなさいね。そんなに落胆するとは思わなかったから」
「落胆なんてしていないわよ」
自分で言ってて、嘘だと思う。
「そうかしら? 普段の蓉子さんなら、もう少し余裕のあるふりができるかと思って」
「フリ、ってあのねえ」
「素直じゃないんだから蓉子さんたら、もー」
ニヤニヤ笑いの頬を人差し指でつつかれる。非常に楽しそうなのが気に障る。
「江利子。目を閉じてちょうだい」
「なあに? 口づけでもしてくれる?」
おどけながら目を閉じて唇を突き出す江利子。その立派なおでこに一発、全力で中指を見舞う。
ばちん、と豪快に弾ける音。
「いったぁーっ……」
江利子が苦しげな顔をしている。うむ。満足した。
「これでお相子よ」
「ふふっ、子供みたいね、蓉子」
「もう一発欲しい? お気に入りなら、別に何度してあげても構わないのだけど」
「冗談よ。聖のいないとこでからかってても、いまいち面白くならないし」
「そう。それなら聖がいなくて良かったわ」
また聖の話に戻ってしまうのか。この二人じゃ、仕方ないのかもしれないけれど。
「そんな悲しそうな目で言わないでちょうだい。本当に申し訳なくなるから」
私が何か言えば言うほど墓穴を掘っているのが、ようやく自分でも分かってきた。
「それで、どこに行くつもりなの?」
「美術館でも行きましょうか。動物園は結構何度も行っているから」
たぶん、今決めたんだろうな。私は小さく肩を落としながらも、少しだけ安心していた。
*
「暑っ」
「そうね……しばらく建物にいたからかしら」
恐ろしく四角い建物の美術館から出てくると、外の蒸し暑さがひしひしと感じられた。ずいぶん長くいたけれど、まだまだ陽は高い。
「どこか涼めそうな喫茶店でも探す?」
「それが良いわね」
そう言って、公園の中をふらふら歩き回っていたのだけれど。結局公園の端から出て、駅の南側まで来てしまった。
「ふう、落ち着くわね」
冷房の利いた室内に、氷の浮いたアイスコーヒー。延々いたら寒くなりそうだけど、今はありがたい。
「ええ。美術館、どうだった?」
江利子が透き通った色のレモンティーをトレイに置いて言った。あっちの方が涼しげだ。
「正直言ってよく分からないわね。もちろん、美しいと思うことは幾度もあったのだけれど」
あいにく、美術方面には明るくない。
「なら、それで良いじゃない?」
そう言う江利子は、まだ何か聞きたそう。
「そう思っても良いのでしょうけれどね。その背後に表現の文脈だとか歴史だとか、なんていうか……コンテクストめいたのがあるんでしょう? そういう部分まで読み取れたら、たぶん楽しいんでしょうけど」
何だかんだ、文法を知ってた方が楽しめるように設計されてるものなんだと思う。
「なるほどねえ。蓉子さんは相も変わらず真面目だわ」
感心してるというより、半ば呆れてるようにも見える。私自身だって、肩の力を抜けないのは不便だと思ってるぐらいなのだ。
「その方が楽しいのも、確かかもしれないけどね。かといってそうやってコンテクストに沿って見なきゃいけない義理もないんだから。そりゃ、私みたいに専門にしようとしているのなら、別だけどね」
投げやりとも真摯とも取れる微妙なところに着地していた。江利子らしいと言えば江利子らしい。
「大学はどうなの?」
「良いところよ。面白い人が多いし」
芸術の話から面白い人の話にずれていく。
「それが理由で学校選んだんじゃないわよね?」
「いいえ。公正なアミダよ」
阿弥陀如来もびっくりな使い方だと思う。
「まだ『面白い人』、で決めてた方が良かったかもしれないわ」
「良いじゃないの。それに、時間も余裕ある方だしね」
「そうなの? 芸術学科って、最初は大量の課題とか出て、基礎をみっちり叩き込まれそうなものだけど」
もの凄い枚数のデッサンとか、淡々と色を塗り分けるとか、そんな通過儀礼がありそうなイメージ。
「それはその通りね。でも、割と好きな時にできるから」
「そうか……講義の時間に縛られたりはないのね」
「ええ。その方が、今日みたいに色々と都合も利くしね」
一人だけ都合が利いても、ついてける人がいないと仕方ない気もするけれど。ついてける人と言えば。
「そういえば、山辺さんとはどうなの?」
「ふふん、聞きたい?」
目が輝きだし、少し身を乗り出して頬杖をつく。待ってましたとあらゆる仕草で語ってるような。
「貴女の顔を見てたら聞きたくなくなってきたわ」
「そう、聞きたいのね」
「話したい、の間違いでしょう?」
「でも、あんまり進展してないのよね。本当は今日だって、山辺さんと聖も呼びたかったのよ」
「ダメだったの?」
「そう。山辺さんは今月は土曜も午後までお仕事。聖は大学のお友達と約束があるって」
大学の友達かあ。聖の友達ってどんな人なのかな。やはり聖と似たような感じの――ダメだ、想像できない。
「二人とも来てくれたらダブルデートできたのにねー」
それなら素直に二人でデートすれば良かろう、と思うけど。それ以前に。
「私と聖はデートとは呼びがたくないかしら?」
「女の子同士でもデートはデートでしょう?」
女子会とかそういう言語感覚の延長線上に立てば、そういう風に表現することもなくはないんだろうけど。
「……そうかしら?」
それでも江利子は目を輝かせている。何を言い出すのかと思えば。
「なぜなら、二人は愛し合っているのだからっ……」
「んげほげほっ、けほっ、どこの誰が愛し合ってるって言うの!」
ブラックコーヒーが気管に飛び込んでいった。
「そこの蓉子さんとどこぞの聖さんよ?」
突っ込むだけ無駄だ。
「いいわ、もうどうでも」
「それでも、私と山辺さんよりは深い絆で結ばれた仲でしょう?」
「……そこに戻るのね」
「他の人に話すタイミングがないのよ。山辺さんとのこと、大学の子たちには話さないようにしてるから」
「まあ、珍しいパターンだものねえ」
高校の時の隣の学校の教師と付き合ってる、ってだけでもそうだし、馴れ初めにしたってそうだし、付き合った切っ掛けに至ってはもう滅茶苦茶だと思う。
「色々聞かれるのも面倒そうだし、それに彼氏? って聞かれても、何だか実感が湧かないのよ」
「でも。結婚も視野にはあるわけだし……広義の彼氏には違いないでしょう?」
「親しくしているという意味ではそうなのかもしれないのよ。ただね、デートらしいデートだってあんまりしていないし、彼氏って言われると、響き的にどうしても性的な意味合いが付きまとうっていうか」
「ああ、なるほど」
江利子の口からそう言われると、なんだか少し驚くけど。それはきっと、彼女自身にしてもそうなんだろうな。
「でも、このままじゃ進展もしないし。夏になったら、二人で旅行に行こうかと思ってるの」
「素敵じゃない。にしても、あのお兄さんたちがよくOK出したわね」
「出てないけど」
「え」
「旅行ぐらいで許可もらう必要もないと思うのよ。一応曲がりなりにも十八歳なのよ、私?」
「それはそうだけど、二人きりでしょう?」
あのお兄さんたちは過保護すぎるとは思うけど、山辺さんと二人きりで旅行ってのもどうなんだろう。
「大丈夫よ。特に何も起きやしないわ。だって山辺さんよ?」
そう言う江利子の表情は、少し照れたような、それでいて幸せそうな。きっと彼を信頼しきっているのだろう。
「江利子にそんな顔できたのね」
「羨ましい?」
「少しだけ、ね」
「ふふん、なるほど」
口元を緩めながら深く頷いている。さっきの恋する乙女とは全く別の、悪戯な笑顔。その様子は、明らかに。
「江利子」
「なあに?」
「変なこと考えてない?」
「変なんかじゃないわよ」
「そう、ありがとう」
変か変じゃないかはさておき、ロクでもないことを考えているらしい。
「他の人に迷惑かけるようなのはナシよ?」
「大丈夫。その辺りは弁えてるわよ」
どうだか。分かったものではない。