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放課後。空は薄暗いままだったが、幸いにも雨は降り止んでいた。雨だったら、面倒になってまたサボっていたかもしれない。
薔薇の館に来るのは、数日ぶりだ。忙しい時期が終わると、どうにも距離を置きたくなる。居心地が悪いとまでは言わないが、如何せんあの空間は疲れるのだ。
館の前で、見慣れた少女と出くわした。
「ごきげんよう、聖さま」
「……どうして?」
志摩子がいるんだ、とは流石に言わなかった。手伝いなんだから当たり前、といえば間違っちゃないんだけど、確か忙しい時だけという話じゃなかったか。
嫌な思考が連鎖する。誰かさんのお節介がまた始まったっていうのか。やめてくれ。余計なお世話この上ない真似は――。
「黄薔薇さまに呼ばれたのですが……」
私の不穏な思考を察したか、あるいは顔に出ていたか、志摩子が申し訳なさそうに言う。彼女に罪はないってのに、妙な話だ。
「分かった。行こう」
……一番おかしいのは。コレぐらいのことで胸がざわついている、私自身なんだろう。
階段を上ると、既に皆揃っていた。
「遅くなりました」
「おはよう、皆の衆」
「あら、ずいぶんと仲良くなってるわね」
蓉子のそれは、皮肉なのか素なのかよく分からない。おそらく両方だろう。
「何言ってるの。そこで会っただけよ」
テーブルの回りには、既に他の全員が集合していた。これだけ揃うのは、割と珍しい気がする。令はたいてい部活でいないし、由乃ちゃんはよく欠席するし、だいたい私からしてよくサボるし。だけど、それよりもっと珍しいのは。
「さあ、二人とも座って。今日は会議よ」
「梅雨空に やる気みなぎる 黄薔薇さま」
江利子が音頭をとっている、という事実だろうな。
「そこの白薔薇さま。一句詠む前に見習ったら?」
「私はダメよ。字余りになっちゃうから」
「そうよ。貴方が頑張ったら、その時は雪でも降るんじゃない?」
「江利子まで何を言い出すかな。せめて集中豪雨ぐらいにしてよ」
「それで手を打ちましょう。で、本題」
背筋をピン、と伸ばした江利子は、少し格好良かった。何だかんだで、江利子も薔薇さまっぽくなってきたな。黙ってれば美人揃い、喋り出せば曲者揃いなところは相変わらずだけど。
……私は、どうなんだろう?
「紅薔薇さまの発案により、山百合会主催の音楽祭を行いたいと思います」
「ちょっと待って。私はそんなことを言った覚えはないわ」
突然名前を出されても、大して驚かない蓉子だった。
何だ、つまらんなあ。
「正確には。『山百合会と生徒との距離を縮めるイベント』として紅薔薇さまが提案し、私はそれを『音楽祭』ではないかと思った次第。何か反論は?」
「待って。それは私も考えたけど……音楽祭って、距離の話とは関係ないような気がするのだけれど」
「ただの音楽祭なら、ね」
「どういう音楽祭なのか、聞かせてもらおうじゃないの」
「薔薇の館についたお高いイメージの払拭には、最適よ」
「……ここを会場にするとか言うんじゃないでしょうね?」
真顔でとんでもないことを言い出した。想像してみたら、笑いがこみ上げてきた。
「あっはっは、そんなことしたら建物ごと壊れるよ、紅薔薇さま」
数百人がひしめきうごめく薔薇の館。階段は確実に落ちるな。床も抜けるかもしれない。
「そう。もうちょっと違う方法よ」
「違う方法……ってねえ」
蓉子が頭を抱えている。うー、とかあー、とか言いたげに。珍しいことこの上ない。
「黄薔薇さまも白薔薇さまも。ご存じならば、もったいつけずに教えてください」
さっきから呆気にとられていた下級生の中から、祥子が声を張り上げた。
「あら、祥子は案外せっかちさんなのね。もう少し、余裕を持った方が良いわよ」
「そういう問題ですか?」
「じゃあ、発表するわ」
怒りだした祥子をスルーする江利子。私ならもう少し楽しむけどなあ。
「私達が演奏すれば良いのよ。それも、お高いイメージとかけ離れた曲を」
「……具体的には?」
「そうね。やはりロックでしょう。私達があえてアンチ・キリストな曲でも歌ってみなさいよ、大騒ぎよ」
「それは……色々と問題があるのではないでしょうか」
志摩子が珍しく声を上げた。まあ、当たり前の反応ではある。
江利子が鳩に豆鉄砲食らわされたような顔をしている。こりゃ、志摩子の敬虔さを完璧に忘れてたな。……人のことは言えないけれど。
「まあ、それは流石に行き過ぎとしても。イメージの打破、って意味ではそういう方向に行くのも良いと思うんだけど、どう?」
「どう、って言われてもね。私、そういう楽器の心得はないわよ?」
「そこは努力でカバーするのが紅薔薇さまでしょう」
「聖、適当なこと言わないの」
『白薔薇さま』も忘れるほど動揺してらっしゃるようで。
「適当じゃないわよ。今までだって、そうだったんでしょ?」
「……そうね」
「大丈夫。失敗したからってどうなるわけじゃないんだから。気楽に行きましょう」
江利子のもう一押し。だけど、その考え方は彼女に通用するのだろうか。
「黄薔薇さま……」
祥子が何か言いかけたのを、蓉子が手で遮る。
「江利子。やるのであれば、失敗はなしよ。少なくとも、やる前の時点においてはね」
祥子が重々しく頷いているのは、たぶん同じことを思ったんだろう。彼女達はどこまでも姉妹だ。まあ、蓉子も祥子もそう言いそうだっていうのは私にだって分かる、といえばその通りなんだけど。
なぜだか志摩子と目が合った。意味もなく、いたたまれないような気分になって、慌ててないふりをしながら目を反らした。
「蓉子、やってくれるの?」
「……そうね。面白そうだわ」
「それじゃあ決まりね。他の方々も、協力してくれるわよね?」
江利子が問うた相手は、主に祥子だろう。
「あの、協力とは具体的に言いますと?」
その祥子が、警戒したような目で見ている。
「準備とか、演奏とかね」
「準備は分かりますが、なぜ私まで演奏することになるんでしょうか」
「あら、貴方にとっても悪い話じゃないと思うわ。貴方は、次代の紅薔薇さまになるんでしょう? だったら今のうちに親しみやすさをアピール、良いんじゃない?」
「……お言葉ですが黄薔薇さま。それは親しみやすさに本当に繋がるのでしょうか」
確かに、祥子の疑問は最もではある。下手すりゃアイドル化しかねない、っていう話ではあるのだから。既にそうなりつつある祥子としては、微妙なところだろう。
どうやって言いくるめたもんだろうか。だけど、援軍は意外なとこから現れるものだ。
「やってみなくては分からないでしょう?」
「お姉さま!?」
蓉子はすっかり、やる気になったらしい。切り替えが早いというか、よくわからんというか。
「貴方だって、自分の立ち位置は自覚しているのでしょう?」
蓉子は地雷を淡々と踏みに行く。たぶんわざとだろう。祥子は小刻みに肩を震わせている。
八十五度ぐらいかな。もう少しで沸点だ。
「紅薔薇さま、何もそこまで……」
「令は黙っていてっ!」
こっちの地雷踏みは、確実に素だな。九十五度。
「そうね。このまま行ったら、来年の山百合会は更に近づきにくくなるわよ。黄色の令はまだしも、祥子は祥子だし、誰かさんが妹を作らないから空席までできるし」
「へへっ、すみませんねえ」
あらあら、祥子九十八度。
にしても普通こっちに振るか、蓉子め。
「それでもやらないと言うのなら、好きにしなさいという他ないわね。姉とはいえ、貴方に強制する権利はないもの」
「だったら」
「だけどね、祥子。貴方には、それぐらいの判断力は備わっていると思っているわ」
「……分かりました。今回は、期待に応えさせていただきます」
怒りは沸点に達したあと……見事に方向転換されてしまった。悪態をつかないのが、せめてもの祥子のプライドってとこだろう。
「賢明ね」
「ありがとう、祥子。キーボードで良いかしら?」
江利子が早速役を割り振りにかかる。キーボードなら大して派手なアクションもなければ、ピアノとそこまで違うわけでもあるまい。妥当な線だろう。
「……ええ、構いません」
「良かった。これで三薔薇全員ギターに回せるわ」
「ギターって三本もいるの?」
私は素朴な疑問を口にしていた。
「ベースとギターで一人ずついれば、曲次第では構わないけれどね。三人ともギターっぽいものを持っていた方が、絵面が美しいでしょう?」
「……マイクだけじゃダメ?」
ボーカルをやらされると噂の私としては。
「二本で済む曲ならそれでもいいけどね」
済まない曲をやるつもりなんだろうな。
「仕方ない、か」
まあ面白そうだし、良いか。祥子達には悪いが、ダメならそんときゃそんときだ。
「で、紅薔薇さまはギターとベースどっちが良い?」
「急に聞かれても」
「考えておいてね。それで、白薔薇さまはボーカル。ここまでで異論がある人?」
手は上がらない。異論を唱えるべき人々が、みな丸め込まれてしまったから当然か。
「それで、あと一人。ドラムが欲しいんだけれど。手伝ってくださる方、いないかしら?」
……ちょっと待て。残ってるのは、由乃ちゃんに令に志摩子だけ。ドラムって感じの人がいない。……いや、元からいないのだが。
「でしたら、私が」
「令。貴方、部活があるでしょう」
「そうよ、お姉さまは剣道に専念してください」
「だけど……」
令の言わんとしていることは、分かる。他に人がいないのだ。
心臓の弱い由乃ちゃんにドラム、っていうのは令以上にあり得ないチョイスだ。それはこの場の誰もが知ってる。
だとすると、残っているのは。
「志摩子、引き受けてちょうだい?」
「あの、私は……」
「ちょっと、どうして志摩子になるのよ」
戸惑っている志摩子を見て、つい口を出してしまった。何だか悪いことをしてしまったみたいで。
「簡単でしょう。人がいないからよ」
蓉子の正論が、耳に刺さる。私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。それは確かだ。
「だけど……だからってドラム叩かせるの? 詐欺みたいなものでしょ、それは」
自分でも何を言っているのか分からなくなりつつあった。いったい何がしたくて、私はこんなに必死になっているというのか。
太鼓叩きさせたくないから?
それとも、薔薇の館にこれ以上近づけたくないから?
「貴方が怒る理由はないはずよ。志摩子が妹だとでも言うのなら、別だけれど」
「でもっ!」
彼女にそんな負担までかけるのは、私の望んだことじゃない。後になって思えば、そんなことを言いたかったんだろう。だけど、上手く言葉にできないまま。
「紅薔薇さまの言うとおりです、白薔薇さま」
「志摩子……」
彼女自身にそう言われてしまったら、私は沈黙するしかなかった。
今の私がこれ以上喋ったって泥沼だろうし、たぶんとても無様だろうから。ひょっとしたら、志摩子もそれに感づいたのかもしれない。
……情けなくなってきた。しばらく何も言わないで、頭を冷やそう。
「さて。怒るなら貴方、ってわけだけど。怒ってる?」
蓉子が、志摩子に問いかける。
「いいえ」
「無理に誘うつもりはないのよ。ただ、私達は貴方という人員を必要としているの」
江利子が猫撫で声で懐柔にかかる。
それは何て言うか彼女の、弱いところにつけ込むみたいなやり方だ。冷やそうと決めたばかりの頭が、また熱くなってくる。
「……やります」
「いいのね?」
蓉子が、頷いたらもう戻らせないというぐらいにしつこく確認をして。
「ええ」
答えた志摩子は、私に向かって静かに微笑んだのだった。
「それじゃあ、メンバーは決まりね。あとは曲だけれど、それぞれやりたい曲とかがある?」
何となく腑に落ちないまま、窓の外を眺める。
再び降り始めた雨が、地面を濡らす。
話の半分は聞き流し、残りの半分は聞き逃した。そのうちに、その日の会議は終わっていた。アンケートをやるらしい、ってことぐらいしか覚えていない。
*
帰り道。前を歩く傘の集団から遅れて歩いていると、横から声がした。
「しっかりしてくれない、白薔薇さま」
聞き飽きた皮肉にしては、声に張りがなかった。
「蓉子がしっかりしすぎてるのよ」
「そんなことないわ。私だって……いつも不安なのよ」
「何が?」
蓉子がわざわざ、何を不安がろうというのだろうか。
せいぜい山百合会の行く末ぐらいのもんだろう。
「貴方を見ていると」
「悪かったわね、だめ薔薇さまで」
「違うのよ。今日の貴方を見ていると、また……」
また、ねえ。
また、何だって言うのか。
栞の時と同じことを繰り返すとでも言いたいのか。
続きを言い淀んでしまったところを見れば、答えは明らかだ。
「余計なお世話よ」
言ってから、少し言い過ぎたかな、とは思わないでもなかったけれど。
「……信じていいのね?」
蓉子が、不安げな目に涙を浮かべて、私をみていた。揺蕩う瞳の奥はか弱い。親と離ればなれになった仔猫だって、もう少し力強い目をしてる。
……嘘でしょ? そんな言葉が頭をよぎり、何かの見間違いかとも思った。だけどいくら彼女の顔を見つめても、その曇った表情に間違いはない。
「ご自由に」
視線をそらしてそう言うのが、やっとだった。
「聖……」
制服の袖で、こぼれ落ちそうな涙を拭って。
「それなら安心ね。今後ともよろしく頼むわよ」
彼女は、いつもの紅薔薇さまに戻ったのだった。
「わかってるって」
……少しばかり文句も言いたくなったけれど。
あんな顔されたら、無理だっての。