7
とうとう音楽祭の日が来た。
八月の良く晴れた空は、直視できない程に明るい。
とりわけ、泥沼の底に沈殿したみたいな気分の、今の私には。
今日の音楽祭が終わるまで。それが、祥子に告げた私の期限だ。気は進まないが――ロザリオを渡さなくてはいけない。
私は志摩子を見ていたいだけで、姉になりたいわけではない。だが同時に、誰かが志摩子の姉になるなら、私以外には考えられないとも思う。祥子では、たぶんすれ違ってしまうだろうから。
そんな後ろ向きな気持ちでロザリオを渡さなくちゃいけない、というのが嫌だった。お姉さまにも志摩子にも祥子にも悪い気がして。
だけど、渡すのを止める気にはなれないってのは、自分でも呆れるぐらいの我が儘だ。
……私に、志摩子の姉が務まるのだろうか。
「みんな集まったわね?」
私達は今、山百合会としての仕事を終え、体育館の舞台袖で出番を待っていた。その間の仕切りは令と由乃ちゃんに任せてある。
段取りでは、トリで唐突に現れることになっているので、生徒達に配ったパンフレットには、『???』としか書いていない。
何人か勘の良い子は何をやるか気づいただろうけど、それ以外にもさまざまな想像をした子がいたから、あくまでも噂話の一つとしてしか広がらない。
他には、先生が合唱し始めるとか、誰か歌手を呼んでくるとか、合唱部が総力を上げてマリリンマンソンを歌い上げるとか、そりゃもう色んな噂が飛び交っていた。
「はてな三つ、の中身を知ってる子、いるのかしらねえ」
江利子も、私と同じことを考えていたらしい。
「そうね。今の時点で見えるところに出てるのが由乃ちゃんだけだから、それで気づいた人はいるかも」
蓉子が答えた。
察しが良い子だとそこまで見てるかな。でも、舞台で演奏してる方に意識が行くのが正しい姿だと思う。
ちなみに、今舞台の上では、噂の合唱部の一人、誰だか……海産物っぽい名前の人が歌っている。純粋に聴いてられる余裕があったら良かったのに、と思わせるには十分な歌声だった。
「そうじゃなくって、はてなに入れるべき三文字よ」
「え?」
疑問の声は、同時に発せられた。当たり前だ。
「バンドなんだから、名前があるんでしょう?」
そうか。名前か。
忘れていたけど、一般的に重要なことではある。
「……江利子。今更名前と言われても」
蓉子の困惑ももっともだが、今までバンドに名前がなかったという事実も凄い。というか。
「予約とかの時にバンド名って書かないの?」
「全部私の名前か『山百合会』にしたわ」
……なるほど。その手があったか。
「じゃあ、バンドの名前は『水野蓉子』で良いわね」
山百合会、じゃ今一歩面白くない。
「それじゃソロよ」
「そう? 人の名前をつけたバンドは普通にあると思うな」
「聖。普通はボーカルでしょう、それなら」
ああ、そういうもんか。確かに。
「じゃあ『佐藤聖』ね。文字数も三文字でぴったり」
江利子が、やたらと嬉しそうに言った。そうか、ソロだとすれば私になってしまうんだな。
「文字しか合ってないじゃないの」
「そう? じゃあ、代案はあるの?」
蓉子が言う。実に難しい注文だ。
「そーねえ……三文字よね」
「そう、三文字」
「三薔薇……いや、五薔薇?」
志摩子は今の時点では薔薇さまじゃないが、まあ良かろう。明日にはたぶんつぼみだ。
「却下」
「どうしてよ」
「薔薇の館が最初から五人なら、それで良いのだけれど」
そうか、令と由乃ちゃんに申し訳ないか。
「七薔薇で」
「実態との剥離が大きすぎるわ。ダメね」
「じゃあ……五人で一文字ずつ取るとか」
「ベタねぇ。三文字に収まるの?」
そういう江利子からは……何を頂くか。
江利子に蓉子に祥子に志摩子。
「子子子子……聖?」
残念ながら、五連星ならず。
「貴方、改名しなさい」「そうね」
「佐藤聖子? どっかに居そうだなあ」
「歌手でいたわよ、確か」
江利子が断言した。変なところで詳しいのか、私が疎いだけなのか。
「改名しても、三文字にならないわ」
蓉子が、実に困ったとでも言いたげだ。
「随分とこだわるのね……あーもう、耳口王でも何でも良いわよ」
「みみくち……? あぁ」
志摩子が呟いて、勝手に納得していた。
「良いわね、それ」
江利子の満面の笑みの眩しさが、若干腹立たしかった。
「――それでは、お次の方にまいりたいと思います!」
舞台の方から、由乃ちゃんのMCが聞こえる。その背後には、ザラザラしたノイズのような音が乗っている。
「マイク、調子悪いの?」
「外に出てみれば分かるわよ」
「え……どれ」
舞台袖と外を直接繋ぐ扉に近づくと、ノイズがさっきより大きくなる。なんなんだ? さっきまで晴れてたから、雨ってこともあるまいに。
「うわ」
扉を開けて身を乗り出した途端、頭に何かがバラバラと音を立てながら降り注いだ。罠でも仕掛けてあったのか、なんて馬鹿なことを考えてしまうぐらいの勢いで。
実際はやっぱり雨だった――いつの間に?
速攻で扉を閉じたにもかかわらず、髪は結構被弾した。
振り返ると、目線がなま暖かかった。半端な優しさがかえって切ない。
「一瞬にしては酷いことになってるわね」
「濡れ薔薇さまね、これじゃ」
蓉子も江利子も好き勝手言いよる。
「黄薔薇さま、それはなんか変な響きだよ」
「あら、気のせいよ」
「あの……タオル、お貸ししましょうか?」
「ありがとう、志摩子」
「……あ」
手渡す時に、志摩子が小さく呟いた。よくわからん。
飾り気のまるでない白くて細長いタオル。貰い物か何かなのか、寺の名前が入っている。
一人だけ体操着で、こんなタオル持ってドラム叩いて。そんな志摩子も、悪くないな。髪をわしゃわしゃと拭いていると、遠くから地鳴りが聞こえた。……雷まで来ちゃったか。
「停電とかしないわよね?」
校舎の方が高いから、直接この体育館に落ちることはたぶんないと思うけど、電線がやられることはあり得る。
「さあねえ。雷様の気分次第よ」
蓉子が、不安そうに言った。
「そういえば、雷が落ちたら楽器ってどうなるのかしら?」
「最悪、持ってる人ごと丸焦げね。特に、金属が出てる分ギターとマイクが危ないわ」
つまり、私が一番危ないと。
「骨は拾ってちょーだいね」
「はいはい」
「そういえば、事故で器材が壊れた場合ってどうなるんですか?」
祥子が、もっともなことを聞いた。何せ、アンプとかはレンタルだ。
「そこら辺はどうにかなるわよ。『わざと壊した』わけじゃないんですから」
「あんた、結構大胆ね」
「そう?」
さっきより大きな雷鳴が、外から聞こえてきた。
……その音で、いっときだけ忘れていたことを思い出す。これが終わったら、ロザリオを渡すんだよな……右の手首が重くなるような錯覚。
「白薔薇さま、緊張してるのかなー?」
江利子が、『よいではないかー』とやるお代官様のような目で見ていた。
「そうね」
まあ、舞台に上がることじゃなくてその後に、だけど。
「これは珍しい。私達で応援しなくちゃねえ」
「ええ」
頷き合う薔薇二人。江利子が私の背後に回る。
何をするかと身構えたが、遅かった。
「えいっ」
頸椎の出っ張りにチョップ。地味に痛い。
「……何してんのよ」
「闘魂注入」
「あっそ」
色々おかしいが、突っ込む気にもならない。
「あら、これは重症」
「……そろそろ準備した方が良いんじゃない?」
「そうね」
気づけば、もう私達の前の奏者まで来ていた。
*
みんな準備を済ませてから、手を挙げて合図。とは言っても、一番時間のかかるドラムは予め志摩子仕様になっているので、大した時間はかからなかった。
「それでは、皆さんお待ちかねかと思います。『???』の正体は、この方たちでーす!」
幕が上がりはじめるより少し早く、蓉子に目配せをする。
意味なんかない。心細かったのかもしれない。ともかく、頷いてくれた。
これで、心おきなく演奏できる――!
ギター一本のイントロ。
騒ぎの始まりを告げるドラム。
幕が上がり、子羊達の歓声が地を揺らす。
窓の外が光ってる。ネオンでなくて雷か。
走り出した前奏と絡まって、華やかで力強い騒擾となる。
投げキッスどころじゃないね、こりゃあ。
「折れってーるー、じゅうっじっかぁーっ!」
きゃぁぁああああぁぁっ。
歌い出しだけで、黄色い声がそこここから上がる。
そんな中で、私は過去を幻視していた。歌のせいだ。
永遠に雨の降り止まない温室。願いは壊れてしまった。
寒空とコンクリート。線路。人波に隠されたようにどこにもない栞の姿。
事実じゃない。記憶だ。それも、私の気持ちとワンセットの。
「やがてスコールは降ーりー止ぁーんでええ」
サビに入って、歓声は一段と大きくなる。
雷鳴も近づき、地を裂くような音になっている。
外では、あの温室と同じ雨が降ってるんだろう。だけど、今の私の指は栞の髪を掴めない。代わりにそれは弦となり、私はその揺れをただ作るしかない。
真冬のお聖堂の裏で抱き合った、最後の栞の感触。私は、暗闇から光を見ていた。
蓉子が何か言っていた。姉妹になる? 何の意味があるんだ。そんなもの無くても、私達は繋がってられる。
寒空の下渡された、長い長い手紙。その時の私には一行だけしか意味を成さなかった。
なぜこんな時に……こんなに鮮やかに思い出してしまうんだろう。
「だって見上げっれーばー」
歌詞の通り空を見上げると、雷の強烈な光が目を刺した。そう、あの時も……こんな風だった。
クリスマスの街は、輝いていて。ネオンも星も、人々も。一様に幸せだって叫んでる。その中で暗く沈んでいく私は、たぶん誰の視界にも入らないんだろう。
私なんて、消えてしまった方が良い。
あたりの景色が滲んで、涙がこぼれ落ちた。
……なんで、泣いてるんだろ?
決まってる、悲しいからだ。
そんな言葉を、誰かから聞きたくないからだ。
少し涙声になりながら、間奏の前までは歌いきった。
……志摩子は幸い、今のところ消えたいなんて思ってはいないだろう。
だが、彼女は自らの存在に疑問を抱いているのは確かだ。原因は知らないが、だからこそ――誰かに必要とされたいのだろう。
上の空で、間奏を弾き終わる。ここからしばらくは、蓉子のギターソロ。
とうとう、真上でバリバリと雷が爆ぜる音がした。照明が一斉に落ちて、場内の生徒達がざわつく。だが、蓉子のギターは鳴りやまない――。
十二月の真夜中に、私を連れに来たお姉さまと、待っていた蓉子。二人の優しい表情が、脳裏に蘇る。
……なんだ。輝いてなくても、私を見ている人はいたんじゃないか。消えたら、ダメだったんじゃないか。
だから……あれほど嫌悪していた、姉妹という形に、結局収まるのか?
だいたい、私に姉なんかできるのか?
あの頃の私と今の私が、様々に形を変えて蘇り……私の頭に直接雷が落ちたような、衝撃を受けた。
違う!
あの頃、栞と姉妹になる必要がなかったのは――既に手を繋いでいたからだ。志摩子には、未だに片手すら差しだしていない。
それに。その姉妹の形を決めつけていたのは、私自身だ。
姉が妹を教え導く、という形に囚われていた。それ自体に、意味なんかないのに。
ただ、お互いがそこに居て……心細くなった時に、いつでも手を繋いでやれる、そんな関係だって良いのに。
志摩子は、いつも手を引いてくれる姉でなく――ただ、凍える夜にだけ、優しく手をとってくれる存在を必要としているのだ。
ロザリオは、いつでも手を取れる距離にいるという証にすぎないけれど。その距離だから、志摩子は安心して、歩いていくことができる。
そんな姉になれるのは、私だ。
だって、私自身が――そんな風にしてくれるお姉さまを、大好きだったのだから。
何で、こんなことに今まで気づかなかったんだ。
今すぐにでも、ロザリオを渡したい。
涙が止まらない。
……照明が戻ったら、泣いてるのがバレるな。それを回避するには!
思い立ったが早いか、ギターを置いて志摩子に駆け寄っていた。
「ロ、白薔薇さま――?」
志摩子が、半ば呆然と私を見ていた。無理もない。
「志摩子。スティック置いて。踊るわよ?」
「は、はい」
そういえば今、曲が――どこだか分からない。
蓉子のギターソロが、聞き覚えのない箇所に突入している。蓉子に視線を送ると、頷いてくれた。
……蓉子には、助けられてばっかりだ。
「ありがとう」
ギターの大音量にかき消されながらも、声は届いたのだろう。蓉子が少し笑った。
「こっちよ、志摩子」
最初に私が立っていたあたりで両手を取る。
「踊りはフリで良いからね」
どうせ暗い体育館だ。影ぐらいしか見えやせんだろう。リズムがずれすぎない程度に回りながら、要点を話す。
「志摩子。単刀直入に聞くわ」
「はい」
「私と祥子が、貴方にロザリオを渡したがっているの」
「あのっ!?」
祥子が驚いて声を上げた。無理もない。
「どちらかのロザリオを受けるか――どちらも受けないか、よ」
「あの、白薔薇さま」
志摩子が戸惑ったような、咎めるような口調で言う。そんな志摩子の手を取って、回るように促す。
「こんな場所で突然じゃ、決められない?」
「いえ、違います」
こちらを向いた志摩子は、確かに私の目を見て、そう言った。
「あの、私は――」
「何か躊躇う理由があるのね?」
「ええ……それが」
たぶん、それこそが。彼女を、私に似せている原因なんだろう。
「全く興味がないとまでは言わないけれど。私は何だって良いのよ、そんなこと」
「え……」
「志摩子が、私の側にいてくれれば良いの。その代わり、心細い時には、私が側にいるから。……あ。祥子は、聞きたかった?」
「……いいえ」
諦めたとも呆れたともつかない感じで、首を横に振る。祥子にも、感謝するべきなんだろう。
「白薔薇さま……」
「貴方が……病気でも吸血鬼でも実は男でも、構わないの。私の妹になってちょうだい」
「……はい。喜んで」
くすっ、と笑ってから、白い光のような笑顔が、暗がりに浮かんだ。
「じゃあ、ロザリオがいるわね」
手首からロザリオを外して、志摩子の右手首に……あ。
「手首じゃドラム叩けないか」
「ちょっと不安ですね」
「それじゃ、こっちにしよう」
ゆっくりと、志摩子の細い首にロザリオをかける。
手を離して、その重さがなくなった時だった。
世界が光で満ちた――体育館の照明が、復旧したのだ。
悲鳴と歓声の入り交じる祝福の中。
折れるはずもない絆が、生まれた。
「続き、やるわよ」
さっきから今まで、形の上では蓉子がギターソロで引っ張りまくってくれていたのだ。まだこれから、3番の歌が残ってる。
「はい、お姉さま!」
ぱたぱたとドラムの下に戻る志摩子。
私はギターを肩に掛けながら、言葉の響きをかみしめた。
お姉さま、か。
照れくさいけれど、それが私達の……証なんだ。
*
「これで、リリアン女学園音楽祭を終了いたします。ありがとうございました」
「ありがとー! みんなぁーっ!」
由乃ちゃんの挨拶の後で、上から幕が下りてくる中、ありったけの声で叫ぶ。もうお祭りは終わりだから。
夏の終わりの蝉みたいだな、私は。
完全に幕が下りたら、片づけの時間だ。のんびり余韻に浸ってる場合じゃない。
「電気が消えた時は、どうなるかと思ったわよ」
私の涙にゃ、触れんでくれる優しさか。
「蓉子。……何て言うか」
良い言葉が思いつかなかった。だけど、蓉子の目を見たら、深く考える必要がないって思った。
「ありがとう」
「え……あっと、良いのよ。 丸く収めてくれたのは、貴方も同じなんだから」
そういう蓉子は、顔を真っ赤にしていた。だから紅薔薇さまなんだろうか?
だけど、何だか満足そうな笑顔で。
まるで、全て予測していたみたい。
「蓉子にゃかなわないね、ふふっ」
ギターとアンプと、一式を舞台袖に置いたら。
埃っぽい空気から逃れるために、扉を開ける。
いつの間にか夕立は止んでいて、空は綺麗なオレンジ色をしていた。
その上には。
「志摩子、こっち来て!」
「何ですか、お姉さま?」
「虹だよ」
七色の虹が、夕焼けに緩やかなアーチを作る。
「白薔薇なのに虹ってのも妙ね」
「黄薔薇さま。白には、全部の色が入ってるんですよ?」
志摩子が、無粋な先輩に突っ込む。
「それなら、アレ全部私達の色ってことね」
志摩子の手を、優しく握って。
どちらからともなく、笑いあう。
夕日に照らされた志摩子の頬は、虹のどの色よりも可愛らしい――淡い、珊瑚色だ。
*
「丸く収まって、良かったわ」
久々に清々しい顔で、志摩子と一緒に外に出ていった聖。
彼女の背中を見ていたら、自然にそんな風に思えた。
「丸くありません、お姉さま」
そりゃあ、祥子は多少不満が残るだろうけど。
「ふふっ、祥子だって分かっていたのでしょう?」
二人で手を差し伸べれば、志摩子は聖の手を取ることぐらい。
「……お姉さま。本当に私に妹を作って欲しいんですか?」
呆れたような顔で言う。無理もないけれど。
「そりゃあそうよ。ただ、今回は例外ね。結果として、山百合会のメンバーには加わったのだから」
「分かりました。今度は、山百合会と関係のないところで妹を探すように努めます」
祥子が精一杯の皮肉を込めて言った。
その言葉が、後に本当のものになるなんて――マリア様だって、きっと思ってなかっただろう。
山百合会のメンバーが云々っていうのは建前で。
聖と祥子のどっちに妹を作って欲しいか、と言われたら……祥子には悪いけれど、確実に聖だ。祥子にはまだ次があるし、妹がいなくても大丈夫なのだから。
聖は、知り合ってから今までいつもどことなく危うい感じだった。
だけど、志摩子と一緒に……きっと安心して微笑んでいられる。
そんな聖の姿を、今は見ていたい。
たぶん、これからもずっと。